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岡崎城訪問記

2023年4月下旬にかの岡崎城へ初訪問!大河ドラマ「どうする家康」が放映される中、(このストーリーの前後では姉川の戦いが繰り広げられ、居城を浜松に移し武田軍との三方ヶ原の戦いの火蓋が切られようとしている頃であった。)非常に良好な天候で初めて岡崎の地に降り立った。というより、三河エリア自体も初めてで非常に新鮮な旅となったことは言うまでもない。それまではほとんど名古屋を中心とした尾張の方ばかりであったため、中々豊橋を起点とした東部のほうに足を運ぶことがなかったわけである。


殿橋から撮った乙川(1)


殿橋から撮った乙川(2)

日中に名鉄線東岡崎駅を下車し、殿橋を渡って北西側に位置する岡崎城に向けて歩んでいく。例年にはない猛暑日を記録した7~10月の時期とは違い、まだ心地よい暖かさを感じられたちょうどよい時期ではあったが、歩いていればそれなりに汗はかいていた。


神橋(1)


神橋(2)

敷地内に最初に目に飛び込んできたのはこの神橋である。朱色の手摺に小さくもかわいらしい擬宝珠の装飾。正面のアングルも良いが、個人的には2枚目の横から撮ったアングルのほうが気に入っており、鮮明とはいえないまでも、お堀の水面に逆さでも映えている。


五万五ふじ

竹千代通り沿いを歩いていると、左手に五万石ふじが艶やかに照り映えていた。話の世界観が全く変わるが、鬼滅の刃に登場する藤の花を連想させるがごとく、それは見事に咲いていた。藤の花をここまでまじまじと見つめたことは意外となかったかもしれない。


岡崎城天守(1)

本丸へたどり着くと、天守がお目見えする。

龍城神社

その隣には龍城神社が鎮座している。


岡崎城天守(2)

入場券を購入し、天守の中へ。個人的な趣味としている100名城のスタンプを押し、城内をゆるりとした。入城して早々、内部からも無骨な石垣の様を見ることができ、ぱっとみ打込接のように見受けられる。(他のブログを拝見する限り、岡崎城は野面積み、打込接、切込接いずれの種類も見られるそうだが、そこまで仔細に渡って見られなったのが今更ながら悔やまれる。)


天守最上階からの景色(1)


天守最上階からの景色(2)
天守最上階からの景色(3)

写真の通り好天に恵まれたため、周辺の木々も鮮やかに映えていた。


清海堀


廊下橋付近(竹千代像と家康公像)


徳川家康公銅像


本多平八郎忠勝公銅像

徳川家康だけでなく、徳川四天王の1人である本多忠勝の銅像までも見ることができた。蜻蛉切の槍に鹿の角の兜、銅像のお姿もなんと凛々しいことか。


徳川家康しかみ像

三方ヶ原の戦いに敗れた際に今後の戦の戒めとして敢えて絵師に描かせたとされている絵の像である。かの絵の正式名称は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」と呼び、名古屋市内の徳川美術館が所蔵しているそうな。


「どうする家康」俳優の松本潤さん着用の鎧(1)
「どうする家康」俳優の松本潤さん着用の鎧(2)
鳩胸薄浅黄糸威具足

時期的に岡崎大河ドラマ館も開館していたため併せて訪問。一部写真OKのところを撮ったものである。ドラマ撮影用の衣装道具とはいえ、見るからに精巧に作られ、これも立派で珠玉な作品の一つであろう。大河ドラマに携わっている美術スタッフの汗と涙の力作といっても過言ではないであろう。

最後の方で触れることになったが、岡崎城で徳川家康が誕生しているものの、6歳で織田信秀で尾張に、8歳で今川義元の人質となり駿府にと、幼少期に岡崎から離れてしまっている。ドラマの中にも触れられていたように、家康は駿府での人質生活に慣れてしまっていたがために岡崎に馴染みがないような描写になっていたが、その家康を支える三河の家臣団の存在がいたからこそ、あらゆる利害関係に溢れた戦国時代の中でも特筆した途切れぬ主従の結束力が確立されたのだろうと思うし、後の天下人になる素質が形成される土壌にもなったのだろうとしみじみ感じてみた。

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