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トリテとレンク(2) 〜 連句と俳句と第二芸術

いろいろな記事を書いているうちに、1ヶ月たってしまいました。
お久しぶりの「トリテとレンク」です。
今回、トリテの話題はお休みです。

さて、数ヶ月前にバンクシーについて考えた記事を書きました。

この記事の最後に、「第二芸術」についてそのうち書く予定、とにごしていたのですが、書きます。

お断り:
珍ぬは、大学などで文学や歴史を専攻していませんので、素人があれこれ語っているだけです。
なので、一種の創作文としてお読みいただきたく思います。

今回の記事に登場するおもな人たちを紹介します。

・桑原武夫(くわはら たけお)さん
 ……1946年に『第二芸術論』を執筆した。
・正岡子規(まさおか しき)さん
 ……俳人。
・高浜虚子(たかはま きょし)さん
 ……俳人。
・松尾芭蕉(まつお ばしょう)さん
 ……俳句をよまない俳人


連句の「位置について」

そうなんです。
松尾芭蕉さんは、俳句を一句もつくっていません。
なぜって、

俳句は明治時代にうまれた

から。
松尾芭蕉は、さらに100年以上前の江戸時代の元禄前後の人です。
じゃあ、

芭蕉さんの「古池や蛙飛びこむ水の音」って、なんなの?

ってことです。

芭蕉さんのよんだ俳句(と呼ばれているもの)を集めて編纂した句集は、岩波文庫からも出ています。


ほらあ、やっぱり俳句じゃないかあ!

そうですね。
では、その内容紹介(「BOOK」データベース)を引用してみます。

芭蕉(1644‐94)19歳から臨終に至る生涯の発句をすべて収める。一句一句新たに出典に当って句形の異同を確かめ、綿密な年代考証によって可能な限り正確な年代順配列を行ったほか、数多い存疑・誤伝句をも付載した。特に巻末には芭蕉句集の歴史にふれた解説、出典・引用書一覧と刊年表、三句索引を付して、鑑賞・研究両面の要望に応えた。

※太字への変化は、自分が追加しました。

発句」。
初めて聞く人もいるかと思います。
これは何かというと、連句の最初の句(第一句)を指します。

そして、「連句」という呼び方は、明治時代以前でも呼ばれていましたが、芭蕉の時代での普段の呼び方は、俳諧連歌(略して俳諧)
芭蕉の尊称でもある「俳聖」。
このなかのは、「俳句」ではなく「俳諧」を意味しています。

発句とは、俳諧における

位置について、用意、ドン!

の「位置について」にあたります。


「位置について」の独り立ち、そして「用意」

連句(俳諧)の第一句目である発句。
この句がなぜ俳句として独り立ちできたのか。

それは、他の句と異なるより技巧性を高めたルールがあったので、独立しやすかったのです。

通常の連句のお約束は、2句1組でつくる「5・7・5・7・7」の形で1つの情景や風景などをあらわします。
ところが、発句はたった1句「5・7・5」で2句分のことを詰め込みます。
なので、「5・7・5・7・7」の短歌と比べると、言葉の効果効率を4倍(2の2乗)にして表現しなくてはならないのです。

これは、短歌が劣っているのではありません。
言葉を表すのに使える字数の余裕があるからこそ、読み手の「心情」や「感情」を言葉として加えることが、短歌はできます。

俳句には「切れ」という方法があります。
これは、

「5・7・5」の1句を、2句に分割して
本来の2句1組で表現する形を
継承するため

の必然的テクニックです。

逆に、連句の第3句以降では、切れは使いません
それは、切れがあると3句1組となり、次を句を読むための連想の材料としては多すぎてしまう。
結果、遊戯の進行の流れが混乱してしまう傾向になるからです。

第3句以降の句を平句と呼びますが、実はこれらから川柳大喜利などが生まれます。
この点については、別の機会に改めて書きます。

ちなみに、第2句を「脇」と呼びますが、この句も特別な役割があります。
通常、新しい句をよむときは前の句を受けて、異なる視点や情景や様子を表現して(同じことは避けて)次々変化させていきます。
しかし、脇は、発句のよんだことをできるだけ変化せずに付け加えます。
それは、

発句は「位置について」ならば、脇は「用意」にあたる

からです。
クイズ番組で例えると、

発句は「問題です!(ジャジャン!)」
脇は「さあ、みんなで考えよう!」

そして第3句から回答開始です。
なんて素晴らしい進行スケジュール。

ちなみに、連句(俳諧)の進行を務めるMC(もしくはGM(ゲームマスター))的役割を「宗匠」といいます。
芭蕉さんは、その「宗匠」として活躍。
『奥の細道』などの紀行文は、地方遠征のときのこぼれ話としてみることもできます。


正岡子規は連句が苦手

すみません。
俳句の前身である発句の説明で遠回りしてしまいました。

そもそも、なんで「第二芸術論」が出てきたのかというところです。
その1つは、正岡子規さんの「月並俳句への批判」から端を発します。

この点については、Wikipedeiaの「月並」の項目を参照してください。

その流れで、子規さんはこんなことを書いてしまいます。
Wikipediaの「俳句」から引用します。

1893年(明治26年)に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ、俳諧から発句を独立させた。
これ以降「俳句」の語が一般に用いられるようになった。

※太字への変化は、自分が追加しました。

連俳は連句のことです。
子規さんは「連句なんて文学じゃない」とディスってしまいました。
しかし子規さんは、全く連句をやったことがないわけではありません。

夏目漱石さんとは友人関係で、手紙も送り合っていました。
また、漱石さんの弟子にあたる寺田寅彦さんとも仲が良かったです。
そう、寺田寅彦さん。
「トリテとレンク」の初回でも出てきた

映画と並べ立てて連句の面白さを伝えた

物理学者です(その一方、俳人でもあり、俳号は「牛頓」(ニュートンから拝借))。

子規さんは、その寅彦さんに誘われ、一緒に連句をしたことがあるのです。
その結果、子規さんは

いやあ、連句は苦手ですわ。

と吐露したそうです。
まあ、人によっての相性はあるでしょう。
加えて、子規さんの後半生は病弱でしたから、長丁場となる連句は体力的にも相当負担があると思います。
持続して考え続けるより、断続して瞬間をつかみとる俳句や短歌が、子規さんにとって非常に向いていたと思います。

連句の話題をできるだけ避けたい心情も一要因となって「連句は文学じゃない」という言葉になった、かも知れません。

2つの「新傾向」

発句は文学なり、連俳は文学に非ず

この発言が、あの『第二芸術論』という大ブーメランとして突きつけられました。
しかし、2つの興味深い出来事と響きあうのが、面白いのです。

子規さんには、2人の抜きん出た俳句の弟子がいました。
1人が、この記事の最初に紹介した高浜虚子さん。
もう1人は、河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)さん。

子規さんが亡くなったあと、後継者となったのは碧梧桐さんでした。
ところが、間もなくして碧梧桐さんは「新傾向俳句」に(文字通り)傾注しました。
「新傾向俳句」は簡単に言うと

5・7・5、何それ?
自由でいいじゃん

です。
ちなみに、新傾向俳句以前の碧梧桐さんは、そらもう見事なまでにきっちりわきまえたオーソドックスな俳句をよんでいました。

発句は文学である」という子規さんの教えは守っています。
ただ、俳句の型や様式よりも文学に比重を置いたら、こんなことになってしまったのです。

そんな事情でして、オーソドックスな俳句を先導する予定だった碧梧桐さんが脱線したので、その代わりの後継者となったのが、虚子さんです。

まあ、仲がいいゆえに2人の間では、口論やら批判やら喧嘩なんてあったでしょう。
とはいえ、虚子さんが「伝統的俳句」を護り、碧梧桐さんが「新傾向俳句」で未知の開拓するというバランスは、お互い思い存分活動するには案外悪くなかったと思います。

で、虚子さんは虚子さんで、「連俳は文学に非ず」に対してはそう思っていませんでした。
ぶっちゃけいうと、虚子さんは

別に連句が嫌いではない

のです。
伝統的俳句を守る傍ら、実験的に連句の可能性を広げようと考えて「俳体詩」なるものを提唱します。
まあ、言い換えると

「新傾向連句」

みたいなものです。
碧梧桐さんと虚子さんは、水と火のように対象的に比較して比喩されますが、実はかなりの似た者同士かも知れません。

「俳体詩」は、数年程度で収束してしまいますが、そこには子規さんの友人である夏目漱石さんが参加していました。
そして、俳体詩の体験からインスパイアされて『猫』なるものを書きました。
これがあの代表作である『吾輩は猫である』である。

連俳は文学に非ず」を覆す事例を、虚子さんは経験していたと考えます。

第二芸術と虚子さん

お待たせしました。
いよいよ『第二芸術論』が登場します。
正式な論文の名称は『第二芸術 ―現代俳句について―』です。

第二芸術については、インターネットにもたくさんの情報があります。
そのひとつの参考として、以下のサイトをあげます。


そもそもなぜこの論文を桑原さんが書いたのか。
桑原さんは留学して西洋芸術論を学びました。
帰国したのちは、自分の学んだことをひろめたい、まあ誰しも思うことを桑原さんも考えていました。

一般にまだ理解されていない西洋芸術を分かってもらう。
その方法として対称的事例をあげることとしました。
それが俳句だったのです。
しかも、その論文は実例を15句列挙して、

さて、どれが大家(玄人)の俳句で、
どれが素人の俳句でしょうか?

と問いかけることで俳句の非芸術性を示す(というか仮説だてる)という、俳句界騒然のクールなメソッドをかましました。

そしてこんな記述です。引用します。

「俳句というものは同好者だけが特殊世界を作りその中で楽しむ芸事。
大家と素人の区別もつかぬ第二芸術に過ぎない」

桑原さんの論文に対して、数多の俳人たちが反論をあげましたが、どうにも上手くいかない。
むしろ反論に対する反論に押されてしまう感じです。

一方、書いた本人の桑原さんは、反響が大きすぎて困惑。
書かなきゃよかったな、とちょっと後悔したとか。

さて、ところで虚子さんです。
この論文の発表時、まだ存命どころかバリバリ俳人しています。
では虚子さんの反応は………

ありゃ?第二芸術どまりなんだ。
てっきり第二十芸術くらい
言われるかと思ったんだが。
十八階級特進しているな。

飄々としています。
人によっては、「あ、黙殺している」なんて思われるかも知れません。

実のところ、桑原さんの『第二芸術論』は、子規さんの「連俳非文学論」をベースにしているそうです。
なので、先ほどの引用文をもじって、

連句というものは同好者だけが特殊世界を作りその中で楽しむ芸事。
大家と素人の区別もつかぬ第二芸術に過ぎない」

とすると、あれ?これ子規さんの発言?と思えるほどの見事な仮借っぷりなのです。
そう考えると、虚子さんにとっての桑原さんの主張は、形を変えた(師匠でもある)子規さんの主張に重なっている、と推測します。

発句は文学なり」。
この言葉によって、盟友碧梧桐さんは文学につられた迷走となった。
連俳は文学に非ず」。
この言葉とは逆に、漱石さんが『吾輩は猫である』を執筆した。

俳句は、文学であるとか芸術であるとか、なにか別のカテゴリにおさめなくてもいいのではないか。
わざわざ他の土俵に上がってしまえば、それは格が落ちたものとみられるのはごく普通の扱いではないのかと。

つまるところは、

俳句は俳句だ。
文句あるか。

が、虚子さんの奥底の主張ではないか、と。

いい加減にまとめ

はい、長くなってしまいました。
今まで書いたことはこれからnoteに書いていくことの前フリです。

俳句や連句を、文学や芸術という軸でたくさんの方が語ってきました。
一方で、遊戯やゲーム(あるいは堂々と芸事)などの軸で語っている人はいますが、少数派だと思います。

ということで、次々回は俳句(そして連句)をボードゲームとしてみることで、何が得られるのかを書いてみたいと思います。

次回は、トリテのターンとなります。

では。



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