日本が中国に朝貢していた時代

中国の時代ごとの朝貢について

後漢 時代


倭王(日本王)は、朝貢派遣し、皇帝から王印を授かった(家臣の印)
天明年間に『後漢書』の記事を裏付ける漢委奴国王印が発見された
論賛は徳川光圀の没後に安積澹泊によって書かれたもの
(日本に移住した、著名な氏族である、「東漢氏」は、光武帝の氏族なのですか)
4C~6Cにかけて日本列島に渡った渡来人の中には霊帝・献帝の子孫を称する者が多く見られる。

(李家は現在の中華圏の支配層ですが、李氏は巨大な人口いますから、
大金持ちの香港の支配者の李家やシンガポール支配者の李家とは比べ物にならない庶民の李家もいます。

呉 (別名:孫呉、東呉)222年 - 280年

この時代に、日本に渡来した「呉王、大伯の子孫だ。」と称して朝貢していた。と、中国古書に証拠が残っているゆえに、
中国では、日本人は呉の大伯の子孫である」と認識されている。

倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は『魏略』)
これは、儒学者の林羅山などに支持され、
江戸時代の日本の学者の通説は「呉の大伯の氏族が日本人である」だった。
呉系は、古代の日本の支配豪族に多い
呉の大伯にちなんだ地名が日本にあるのはそのせい。
(広島の呉市など)
戦乱などを避けて呉から日本に亡命移住したという説があり、1999年には江蘇省と太宰府の遺跡の人骨がDNA分析によって一致したと報告されている。

南北朝時代


日本は南朝に対して断続的に朝貢を続けていた。
倭の王である、武は
「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、
後漢の南朝に叙任を求めた。
南朝は「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に叙任する(南朝が冊封した百済が省かれている)。

後漢・南朝が朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国にあると認めた事を意味した。

聖徳太子の時代の大王は、百済王の姫と婚姻し、朝鮮半島権利と
任那(南朝鮮に存在した日本総督府)を再生させようとしていた。
(弥生時代に、天皇氏族は任那出身で日本に移住した)

唐 時代

遣唐使の時代
天皇、唐からは新羅同様の朝貢国とみなされていた。

冊封国である突厥や渤海が同様に席次を争った事例では、
唐は要求を却下しており、日本は他国よりは上位とみなされていた。


隋 時代


推古女帝は、遣隋使を派遣した。(朝貢)
推古の甥の宰相・聖徳太子は、新羅の花郎を使用していた。
東漢族(中国人)や、秦氏などを積極徒用し、
中国人や朝鮮人の移住を促すために
彼ら渡来人の信仰する仏閣を建立にいそしんだ。

鞍作のトリなど朝鮮半島の建築士を積極徒用した。
聖徳太子の氏族である、蘇我氏は、神道派の物部氏を滅ぼした。

二度目の遣隋使に、倭王の阿毎多利思比孤は「天子の国書」を送って、
隋の煬帝を激怒させた。

呉越 時代


北宋・南宋 時代


明 時代(1401年)

将軍の足利義満が、博多商人らを明に遣わして通商を求めた。
倭王が、明への朝貢。
勘合貿易



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