配信中に味方批判をしていたときのこと【スプラトゥーン3】
昨日の深夜帯、私ズンダがメモリープレイヤーを使って
味方批判をしていたところ
いくらかコメントをもらった。
このコメントした人間がどういう人物なのかはわからない。
味方なのか、敵なのか。そもそも単なる視聴者であった可能性もある。
わからない部分は多いが、これに関して思うことがあったので書くことにする。
味方批判について
話を展開する前に私ズンダは味方批判を次のように考えている。
このゲームは四対四のチーム戦であり、それぞれに責任がある。
自分よりも味方のほうが悪かった場合は普通に考えられる。
そうなっているのにもかかわらず、自分を必要以上に責めるというのは
非合理的であり、生産的ではない。
そのため、味方のプレイもみたほうがよい。
これにより自分の欠点よりも味方の欠点のほうが大きいと
《考える》のであれば味方を堂々と批判してよい。
この《考える》に関しては自身の限界性があるため
完璧に是非をわけることはできない。
「自分はわるくない」と思っても、実は「自分が悪い」ことはあり得る。
だが、それを完璧にすることはもとより不可能である。
よって暫定的な判断をくだすしかない。
これは放送中に試合を熱心にみている視聴者の数や水準によって
大きく変動する可能性がある箇所である。
私などもリスナーから「ズンダさんが○○したのがわるい」といわれることがある。
いろいろ限界はあるものの、【何も省みないよりはマシ】という実践主義の思想に基づいて、味方批判をしている。
さて、彼のコメントをみていくことにしよう。
①~⑥のうち、①、⑤、⑥は「個人の感想」である。
②は「①の発言は放送主ズンダに対してのものだ」という意図。
③、④は発言として検討の余地がある。
検討しようがない
①、⑤、⑥は
検討しようがない。
それについては各個人の感想や道徳的な観念である。
たとえば、①のコメントは私ズンダの批判を不愉快に感じた人物の
「人間性」に対する感想である。
人によっては私の批判行為を
「自分を含めた批判により、欠点を浮き彫りにする作業を
している自己研鑽に励む誠実な人間だ」
と思うかもしれないからだ。
⑤の「まあ、そりゃあパワーも上がりませんわな」も
個人の感想である。
私がこのコメントに関して思ったことは次の二つである。
世界公平仮説とは人が抱きがちなバイアスである。
長くなるが引用しよう。
要するにこの世界には確定的な因果があり、
「努力すれば結果はついてくる。結果がないのは努力してないからだ」
という発想の持ち主にありがちなバイアスである。
本人自体がこのバイアスにかかっていることに気づいてない。
これが知識の問題なのかはさておく。
2.については
このコメントをした人物がもし「戦犯」だったとすれば
自分の弱さを誤魔化していることになる。
私ズンダが「下手」だったという事実と
コメントした人物の「戦犯」が覆されるわけではないからだ。
これに似た例に「罪なきもののみが石をなげよ」という「すり替え論法」といわれるものがある。
という逸話が『聖書』にある。
ただ、直ぐに気づくことがある。
「え、じゃあ、誰も誰かのことを裁けないじゃん」
ということだ。
実際そのとおりで、だからこれは「すり替え論法」だし詭弁である。
よって、この論法では議論ができない。
ちなみにこの問題は次の③でも出ている。
この「すり替え論法」に関しては詭弁ではあるが、説得力という点からみると重要な役割を果たしてはいる。
というのも、誰でも「お前が悪いことしてるのに、悪人を裁くなよ」とは思うからである。
つまり、論理的には詭弁なのだが、説得力をもとうと思えば、裁く側は清廉潔白でなければならない。
この「すり替え論法」、私ズンダ自身も分かっておきながら頻繁に使っているので、一種の修辞技法なのかもしれない。
⑥「配信者に向いてない」に関しては、
「まあ、別の人の放送みればよくないすか?」で終わってしまう。
youtube上で放送している多くの人がおり、そのうちの一人である
私ズンダの放送をわざわざみにきておいて、そんなことをいう理由がわからない。
ましてや、私は「味方批判をする」とタイトルにかいているのである。
このコメントの人物は
「人からほめてもらわないと許せない。みんな、私をほめろ!」
という思想の持ち主なのだろうが、少し傲慢ではないだろうか。
だいたい来た段階で、自分がやらかした、と思っているからみにきたのではないか。
検討
では、検討するに値する③と④をみてみよう。
この私の批判行為をどうとらえるか、解釈するかは、私のことをどれだけ知っているか
という知識の問題、人によっては想像力の問題というだろう。
相手をどれだけ慮ることができるかにつながっているからである。
では③について。
③戦犯探す前に自分の反省点探したらどうですか
これに関しては一般的に正しいと思われる。説得力という観点からみても。
先ず隗より始めよ、というわけだ。
しかし、私ズンダは次のように「労力」を考える。
明確に動きが悪い人間がいた場合、その人物に焦点を当ててみることが
最優先であり、効率がよく、リソースを消費しない方法である、と。
味方には1~4の点数をふってみて、そのなかで
点数の低い人間をみたほうがよい。
1日に1試合しかしないのであれば四人全員の動きを観察するのは
いいことかもしれない。
しかし、何試合もやっていてその全員をみるのは時間も体力も足らなくなるだろう。
要するにメモリープレイヤーはどこかで割り切ってみざるを得ない。
取捨選択しなければいけない。
四人全員をみる必要などないのである。
特別下手な人間をみれば、それで、能事畢れりとするぐらいが調度いい。
負荷がかかりすぎると反省会自体がおっくうになり、反省そのものが嫌になる。
私は自分がまずかった場合は自分のまずさをリスナーに指摘してもらうし、自分のまずさが低かった場合は検討しないか、軽くしかみない。
これが③に対する私の返答である。
そして前からブログでかいているように「リソース」の意識を
かかすわけにはいかないという私の合理的な考えでもある。
④の「それは百も承知で勝利に導くのが野良だろ」
これは「ウデマエを上げる」という点からすると、正しい。
実際、XPが高い人物というのは一人でどうにかしている。
確実にキルをとり、人数有利をつくりだし、味方を勝利へ導く。
だが、それと「味方批判」がどういう繋がりがあるのかが不明である。
プレイヤー本人がどうにかする、という考えだった場合、味方の欠点は消えるのだろうか?
「小魚を食っていても思い込めば、松坂牛を食っているのと同じ」になるのだろうか?
鰯の頭も信心から、という諺があるが、何か宗教にでもはいっているのだろうか?
欠点は欠点でしかない。消えない。
その消えない部分を反省点としてみているのである。
このコメントでも
「自分は確かに下手だったけど、それをお前がキャリーしろよ」
という彼の《甘え》がみてとれる。
私からすれば、「なんでお前をキャリーしないといけないんだよ」と
しかおもえない。
批判嫌い
さて、彼のコメント全てに対して思うことを述べた。
非生産的なやりとりであり、何も勉強になることはなかった。
もしかすると世の中の人は自分が批判されたことのないぐらい
いい人生を送っているのかもしれない。
それは羨ましいことだ。
いうまでもないが、私ズンダも誹謗中傷に関しては断固として反対である。
特にくどいほどの粘着質な弄りや讒毀をみると義憤が湧き上がる。
だが、批判までするな、とは思わない。
ましてや「批判するな」といっている人物が世界公平仮説を
信じているのだとすると、余計に意味がわからない。
誰でも自分の言動や能力を批判されることぐらいあるのではないか。
そのたび毎に「自分が悪いのか?相手のいいがかりか?」を判別し、
直せるものは直し、直せないものは受け入れる、ぐらいのことをしてきたのではないか。
この手の批判を厭う気持ちはよくわかるし、この間の「甲子園実況」でも
それについての意見があった。
次のNOTEは「甲子園実況とはなにか?」を書こう。
※なお、この記事に限らずだが、誤字脱字や論点の捉え間違い、筋の運び方などが目立った場合は適宜、修正をいれることをご了承願う。
↓以下もどうぞ。
ネットにおける批判とスプラ界隈の立ち回りと、2チャンネルのよさ。|Zunda (note.com)
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