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「《言語化》という自己啓発」と「スプラトゥーン2に関する記事の想い出」と今井むつみ『学びとは何か』のまとめ


《言語化》について調べる

新しい自己啓発本

ここ一年ほど、やる気があるときに《言語化》について調べていた。
言語化に関する私の文章は以下をみてもらいたい。


この文章を書いた後も継続して《言語化》と題する本はでている。
題する本だけでなく、本文中に《言語化》という言葉が使われているものを探せばいくらでもみつかるだろう。

ただ私の関心は《言語化》をウリにしている人たちに限られており、「解説」「表現」などの意味で使用されている《言語化》には問題意識をもってない。

なぜ《言語化》をウリにしている人たちに興味があるかといえば、そこに「自己啓発」の匂いがするからである。

実際《言語化》という表題の本を読むと、どれも今までのビジネス書などにあったようなことがかいてあるだけであり、特別かわったことはない。
前から言っているように《ガワ》をかえただけである。

しかもその《言語化」が素晴らしいという説には特に根拠がない。
見たところ一冊をのぞけば「自分が会社でやってきて、うまくいった」という話である。

ゲーマーがよくいう「《言語化》が得意」とか「《言語化》でうまくなる」が焦点

ただ、《言語化》という本の大部分は「伝え方」や「文章をかくための下準備をする」という本であり、ここまでであれば普通に良い本である。

問題はネット上でたびたびみられる

「私が考えてくれていたことを《言語化》してくれました!」
とか
「《言語化》することでゲームがうまくなる」

といった《言語化》である。

前者は詩人のポエムをよんで感動しているだけであり、後者は「《言語化》でゲームがうまくなる」という理由がない。

《言語化》という言葉が勝手に独り歩きしており、内実がなくなっている。
私ズンダが特に問題視しているのは後者の「《言語化》で能力があがる」といったものだ。

これは「実際のプレイはたいしたことないが、《言語化》という別軸は有名プレイヤーに匹敵する」という疚しい考えではないか?

自分の拙劣な技術と向き合ってないだけではないか。

自己啓発が嫌い

これは自身のブログ「ズンダのブログ」において何度もかいてきたことだが、私は「自己啓発本」を嫌っている。その自己を無限に改善できるかのような物言いに進歩主義者の楽観的な姿勢を感じるからである。

そして彼らを純粋に信じ込んでいる人々が口々に言う
「お前は、努力が足りない」という居丈高な態度に昔も今も苛ついているからである。

彼らは人間が平等に能力をもっていると思い込んでいる点で無知蒙昧であり、人の能力を均質なものとしてみている。それは遺伝的にも環境的にもありえないことであり、人の状態を知らずして一律に人間を裁こうとしている。その歪んだ考えが嫌いなのだ。

人の人生に夢や希望を与える言説をふるまうが、その実、彼らは他人に対して異常なほどに厳しい。
彼らの中では「人生は努力すればどうにかなるのであり、成功していないのであればその人は努力していない」という論理があるからである。

↓以下、自己啓発批判本。


宗教である

そしてこの「宗教っぽい」(大澤 絢子「修養」の日本近代)ものの正体、これはアメリカのキリスト教における異端的な宗派「ニューソート(New Thought)」による「自己啓発」が明治以降の日本に輸入されたものであった。

↓まだ発売していないが、アメリカの自己啓発の歴史をあつかった本がでる。

※分析哲学雑誌『フィルカルVol. 8, No. 3』において宗教学者の島薗がこの大澤がいう自己啓発と、中国の儒教における「修身斉家治国平天下」と何が違うのかを研究しなければならないといっていることに注意が要る。
これに関しては新しい研究の進展が待たれるところである。
また同雑誌において「宗教っぽい」ものの概念整理を怠っているのではないかという批判もあった。


これを踏まえると、自己啓発に勤しんでいる人間は「宗教っぽい」のであり、更に他罰的であり、そしてどうしようもないほどに「自己責任論」を好む理由は、単に宗教的儀式に没頭している自分の「祈り」を小馬鹿にされたくないからではないかと思えてくる。

※「修養」は「教養」とは似て異なる。教養主義に関しては以下の本を。

↓教養主義批判の古典中の古典。これの筑摩叢書版を大学一年生の頃に読み、衝撃を受けた。


スプラトゥーンというゲームとその言説

ウデマエXへいけないのは「努力が足りない」


私自身のもう一つの関心は「スプラトゥーン」というゲームであった。
正しく言えば、このゲームをやっているプレイヤーたちとの言説にあった。

若い人も多いこともあって、彼らはとことん素直なほどに《自己啓発本》の影響を受けている。別に読んでいなくともである。一種の通俗道徳を信奉している状態にあるのだろう。我々は《自己啓発本》を読んでいなくとも社会の隅々で「努力しろ」と習うせいで、努力主義に陥っている。

須藤康介「小学生の努力主義の形成要因と帰結」によると、
小中と年齢が上がる毎に努力を信奉する人は減ってくる。もちろんこれはその人の学力と関係している。優秀であれば努力を疑うことは少ない。

つまり、勉強などが追いつかなくなってくると徐々に「できない」という現実を思い知ることになり「努力主義」を疑うようになるのだ。

これは更に年を取るとわかってくる。
勉強以外の多くのことで、可能にならないことを経験するからだ。

だが、スプラトゥーンのプレイヤーは若い人が多く、四年ほど前だとなかなか理解されなかった。「親ガチャ」という言葉が流行る前だったし、サンデルの本『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が出る前だった。

ズンダブログの記事への反響


私ズンダがブログにおいて「スプラトゥーン」についてかいたところ意外に反響が大きく、驚いたことがあった。

彼らが口々に言うには

「ゲームは努力すれば上手くなると思っていました。ズンダさんの記事を読んで勉強になりました」

というものだった。

実はこの感想をきいて、私は次のようにおもっていた。

「世の中の人って、こんなに自分の能力を信じているんだな」

私など自分の不器用さに悩む日々だったので、自身の能力などあまり信用したことがなかった。

「なぜ、こんなに自分は他人よりもデキがわるいんだろう?」
と悶え苦しんでいた時期が間欠泉のように吹き上がってはみ、んでは吹き上がるを繰り返していたのである。

だから、あの記事でそういわれたのは慮外なできごとだったといえる。

読んでくれたのは嬉しかったが、彼らの純朴な考えこそが《自己啓発》の罠にひっかかる理由でもある。

みな素朴に「自分は能力がある」と思っているのだ。

それがあるからこそ、「わたしの能力は伸びる!」と信じ、《自己啓発》と共に前へ進めるのだろう。

これがいいかわるいかはそのときの状況による。
算段がない賭けには乗るべきでない、というぐらいしかいえない。
仮に勝てる方法があるのならばそれに時間をかけるべきである。
ただし、それが《言語化》なのか?という問題はあるだろう。

そのスプラにおいて《言語化》という言葉を主軸にし、自身を表現している人々がいることを知ったのはスプラトゥーン3からであった。

彼らに関してはいずれ書くつもり、というか今までかいてきた記事において普通に批判しているのだから敢えて書く気を感じない。

ゲームの寿命のせいか、
手前の小文のせいか、
それともメロン君のような超弩級の人物が活躍していて《言語化》など天才の前には役に立たないことを学習したのか、最近はおとなしいように思える。

今井むつみ本の個人的な要約


では、今井むつみの本をまとめておく。
これもどこかで使うだろう。

ちなみにだが、この本はすでにズンダブログで紹介しており、今回はいずれ使いたいと思う部分をまとめただけである。

・認知科学「スキルの自動化」(難しいことが意識されずにでいるようになる。 ・スキーマ(一定の枠組み。人は何かを学ぶときにこの枠組み、偏見なしでは何かをとりこむことができない) ・認知科学「心的表象」(すぐれた判断や行動を可能にする基準)

・自動処理と制御処理(自動処理ははやく処理する力だが、一定の偏見によって新たなことを学びにくくする。制御処理は速度が遅く、容量が少ないが学びを柔軟にする) ・身体をつかって学ぶ以外に身につけられない。みているだけではだめ ・直感とは「古い脳」といわれる尾状核がうごく

批判的思考とはなにか?
・エピステモロジーの発達段階を提唱したディアナ・キューンは「批判的思考」は「argue」する能力だという。「批判的思考はもともと英語の「critical thinking」の訳である。そして、このことばと必ずペアになって使われる概念が「argue」という動詞なのである。

evidenceとは?
・エビデンスとは「事実」ではなく「さまざまなピースを論理的に整合性がとれるように組み立て、構成した論理の不可分な全体」をいう。 ・思考力を養うにはエピステモロジーを発達させ、成熟したエピステモロジー、つまり評価・構築主義のエピステモロジーをもたなければならない

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