しあわせを受け取る準備をしよう
幸せってなんだろうというのは定期的に考えるもので。
考えるということは、調子がいいかよくないかでいうと、よくない方なのかもしれない。別に自分ではそんなことないと思っているけど。
調子がいい時は何も考えずとも上手くいくし、調子がよくない時は余計なことまで考えてしまう。でも考えるのをやめてしまったらそれこそ終わりだと思うので、考えようとしている自分は大事。
冒頭にも書いたように、こういうことを考えるのは今回が初めてじゃない。noteでもそれっぽいことは記事にしている。例えば、
ここでは「幸せに気づけるか」という視点で書かれている。ニュアンスとしては似ているんだけど、今回は今の感覚でまとめていきたい。
まずもって「しあわせってなんだろう?」と考えた時、一般的に浮かんでくるのは、例えば「お金持ちになりたい」とか「美男美女になりたい」とか「有名人になりたい」とかそういうのが出てくるだろう。
でもちょっと俯瞰で考えてみたい。
お金持ちになれば幸せなのか、美男美女になれば幸せなのか、有名人になれば幸せなのか。
確かに幸せになれる確率は高まるかもしれないし、幸せを感じる機会は増えるかもしれない。でもじゃあ絶対幸せかというと決してそんなことはないと思っていて。
お金持ちでも幸せを感じない人はいるだろうし、有名になっても精神的にしんどくなる人はいる。傍から見れば「揃ってる」と思える人たちでも、手を出しちゃいけないものに手を出したり、最後の選択肢を選んだりすることが現実問題としてある。
そう考えると幸せってやっぱり地位や名誉、環境だけで得られるものではないらしい。(それが1つの要素ではあるということは前提のうえ)
かと思えば、友人からのちょっとした「ありがとう」やアイスの棒でアタリが出たとか、お風呂に入浴剤入れたらいつもより気持ちいい、とか、そんな超些細なことにめちゃくちゃしあわせを感じることだってある。
そう考えた時、
気づく、というと自分次第でいつでも気づける、みたいなニュアンスがある。もちろんそれはそうなんだけど、でもなかなかそんな精神状態じゃない時って正直ある。
そもそもその目の前のしあわせに気づける準備が出来ているか、自分の中に入れ込んであげる余白があるか。まずはそこが大事なんだろうな、って。
そのためにも日々、自分の”今ここ”と向き合ってあげた方がいいなと思う。忙殺されてしまいそうになる日々でも、それが当たり前だとかしょうがないとか思わずに、いい感情もよくない感情も、それが存在することを自覚する。そんなことを習慣にしないとな。
それが、しあわせを受け取る準備に繋がっていく気がする。
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