エロ本は誰が置くのか
最近、エロ動画やエロ漫画、エロ写真がスマホやパソコンを駆使して誰でも閲覧することが出来る。青少年達はそれを餌に性への扉を開けて行くことは言うまでもないだろう。
一昔前までは、性の扉を開く役割を担っていたのは公園や路地の片隅に置いてあったエロ本である。現在では携帯端末の普及でわざわざ有料の紙媒体を買う必要がないため、滅多に見ない。
今も昔も男子は物心ついた時に恐いもの見たさでどんな形の媒体でさえ性を垣間見みようと試みる。
その入り口が、スマホか公園のエロ本かの違いに過ぎない。そこで女性とは何かエロスとは何かを問われ、性を学ぶ。それは義務教育課程で学ぶような生ぬるい性ではなく、厳しい現実を突きつけられる。行為の描写を不意に見てしまった瞬間、恥に似た激しい焦燥感に襲われる。そこで性だけではなく何故子供が出来るのかといった長年抱いてきた疑問が初めて解決する。両親が「大人になれば分かるよ」と答えるのに困ったあの瞬間が走馬灯のように脳裏を過ぎり、明確な答えを避けようとした理由も全てが解明されるのだ。この体験は男女問わず誰にでも突きつけられる現実であり、それは大人の階段を登っていることを意味する。
エロ本はそのような役割を果たしていた、一種の教科書的役割を果たしていたことは言うまでもない。
しかし、
よく公園に置いてあるこの「教科書」は一体誰が置いて行くのか?
誰に聞いてもエロ本をその場に置いて去った者を見たことのある人は誰もいない。はじめ、映画デスノートのオープニングのように空から降ってくる。つまり、天からの授け物なのではないかと考えたが、現実的でない。
現実的に考えた場合、置いていってくれる人は基本、行き場のない性欲を持て余した独身のおっさんや大学生が置いていってくれるのだと予想がつく。何故、置いていってくれるのかと問うと次のような理由が考えられる。
買ったは良いものの新聞や雑誌と一緒に近所のゴミ捨て場に出すのが恥ずかしいため、何気なく近くの公園や路地の目立たない場所に置いて行く。
つまり
ポイ捨て。
そのゴミと化したエロ本をハイエナの如く少年達が集る。そして性を学ぶ。彼らが大人になる。エロ本を捨てる・・・のくり返しなのだ。置いていってくれる大人は彼ら少年からすれば青空教室の先生に違いない。
ゴミのポイ捨ては今も昔もマナー違反のレッテルを貼られがちだ。しかし、そんなゴミのポイ捨てから先人達は性を学んだのことを忘れてはならない・・・。
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