私にとっての倫理の問題

 眠いが、書いておきたいことがあるので書いて寝る。
 書いておきたいこと、というのは、倫理について、私は何を言いたいのか、ということである。
 倫理を考える上で「歴史」と「自由」が重要な問題であると考えている。「歴史」が重要なのは、そもそも倫理が歴史と向き合うことにかなり近い行為であると思うからである。「自由」が重要なのは「自由」を取り違えると「歴史」が失われるからであり、それゆえ倫理が失われると思うので「自由」は重要である。
 また、別の次元では、「多産」と「連関」が重要であると考えている。「多産」というのは字の如く「多く産む」ということである。じゃあ何を産むのか、と言えば、「自分」であり「自分以前」である。この「自分/自分以前」の考えはここで展開すると寝る前に寝てしまうので、というのは簡単に言えば寝落ちしてしまうので、私の「自己」という言葉の入った文章を読んでほしい。どれが適切かどうかメモしておけばよかったと思うのだが、「多産」であるがゆえにそれらをまとめることは難しいことでもある。「連関」というのは、「多産」と近いのだが、より態度的な重要性を持っている。「連関しない」という選択ももちろん重要であるが、私は基本的に「連関する」ことが重要であると思っている。「連関」というのも読んで字の如く「連なる関わる」である。ハイデガーかな、忘れてしまったが、いや、なんというかたくさんの人が言っていると思うが、過去の何かに呼応することが実存である。実際に存在するということである。現在において「自己は存在する」というのは不可能であり、その「自己」はなんらかの応答であることが忘れられてはならない。これが私の倫理の最終的結論である。これは「私」も「あなた」も「応答」であるという極めて単純な答えなのであるが、その全体像は私には見えていない。
 じゃあなんで書き始めたのか、と言えば、上の二つの系列「歴史」と「自由」の系列と「多産」と「連関」の系列がどのような関係にあるかが私の倫理においては問われるような気がしたからである。
 「歴史」に関しては西田幾多郎の「作られたものから作るものへ」という標語やメルロ=ポンティの「私は私自身に与えられる」という「誕生」概念による主知主義的「主体」概念批判が思い出される。そしてどちらも「歴史」を背負うことによって倫理が始まると述べていることは共通している。西田幾多郎は「絶対無の限定」として、メルロ=ポンティは「表現」として、それぞれ「自由」を標榜している。西田幾多郎は垂直的な要請によって「自由」を得ようとし、メルロ=ポンティは水平的な要請によって「自由」を得ようとしているという一応の便宜的な違いはあるが、「歴史」を背負いながら「自由」を標榜する、という基本態度は変わらず、西田が「絶対無」や「自覚」でそれをなそうとするのに対して、メルロ=ポンティは「表現」や「知覚」でそれをなそうとする。そういう系列が「歴史」と「自由」の系列である。
 それに対して、「多産」と「連関」はよくわからない。私は倫理について考えた当初から「多産」ということが倫理的であると言っているし、「連関」に関しては「自己」について考える場合はもうすでに前提されている。そもそも、「自己」が「多産」的であり「連関」的であるということが前提されているのが私の「倫理」の構想であり、「多産」と「連関」は絶対的に善いことだとここでは考えられている。このことを念頭に置くとすれば、西田幾多郎とメルロ=ポンティはその具体的な様態を示してくれているのかもしれない。
 だが、見えそうで見えない。

 さて、解決せずに終わってしまった。私が最後に書こうとしたのは、「多産」が西田の「歴史」と「自由」であり、「連関」がメルロ=ポンティの「歴史」と「自由」であるということであるが、そもそも「多産」と「連関」は如何なる関係にあるのだろうか。私が解明せねばならないのはそこである。
 今日はいろいろな文章を読んで、頭がぐるぐるしているので寝ます。考えきれなかったけれど問いは少し明確になったような気がするので満足です。「問いをちゃんと見つけたら半分答えようなもの」と誰かが言っていたような気もするので明日も考えます。読みます。書くかは分かりませんが、いつかは書きます。おやすみなさい。

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