哲学について考えるという息抜き、運動

最近はなんだか思い詰めているので息抜きに哲学について考えよう。哲学が息抜きになるのか、とか、仮になるのだとしたらそれは不誠実なのではないか、とか、そういうことを思う人がいるかもしれないが、事実そうなのだから仕方ない。私にとって哲学とは休息であり、文学とは窒息である。

このように書いてみて思い出すのは『水中の哲学者たち』で正確には覚えていないのだが哲学することを海の中にみんなで潜ることみたいに言っていたことである。息が苦しくなりながらもみんながいることで、なんだ?みんながいることでなんだ?こういうときは読み返せばいいと思うが「読む」というのは思い詰めずに行うことが難しい。いまの私には。なのでとりあえず思い出したことだけ言っておこう。

で、なぜ思い出したのかと言うと、私は文学にそういうイメージを当てたくなるからである。なんというか、哲学は溌剌としたものである。溌剌とすることである。だから海の中というイメージでは湿っぽい。それに対して文学は、と言おうとしたが、文学に湿っぽいイメージはない。私は「文学」でほとんど純文学を指しているが私はかつて「文学」について「文学とはある人の根本的な気分である。」と述べるのと一緒に「文学とは海の底のドームである。」と述べた。そのイメージを引き継ぐとすれば、「文学」は湿っぽさの底の乾きであると考えられる。

ただ、ここで話そうとしているのは「哲学」である。私にとっての「哲学」である。「文学」との対比を大事にするなら「哲学」における湿っぽさは蜜である。芳しい香りのする蜜である。そしてその蜜は二つの仕方で現れる。一つは重さによって。もう一つはねじれによって。そしてあまり底というイメージはない。無理に対応を取る必要もないが。

重さというのは同じ構造の異なる反復があるボリュームを持っていることを指している。例えば、私は最近私の「哲学」には「打ち切り」という実践と「問い-こたえ(答え/応え)」という実践とが存在していることに気がついた。というよりもそういうことにすれば探究が力強くなることに気がついた。別にどちらでもよいが後者のほうがわかりやすそうなので後者で話をしよう。

後者の根本にあることを雑談っぽく言うとすれば、「そもそもさ、なんで話さなきゃなんないのか、って話だよね。」「でもさ、君も話してるじゃん。話さなくてもいいのに。」みたいなことである。どんなことを話したとしても「話しているってことは話したいからだよね。何かを話したいからだよね。」みたいなことは追いついてくる。そしてこの追跡から逃げきれないと「なんで話したのかわかんない。何言ってるのかわかんない。」と言われるのである。仮にこのことを言おうとしても。だからみなさんも思っているはずである。このように。しかし、これは単にAに対するBの反復ではなくXに対するAの反復がBの反復であると考えられる。これがここでの実践であり、これが「こたえ」を「答え」と「応え」にしているわけである。

で、ここでの主題は「哲学」とはなんなのかということであり、この主題に私は「文学」との対比によってこたえようとしていた。その対比においてイメージの対比があった。「海/蜜」という対比である。とりあえずこれを手がかりにして考えていこうとしていたわけである。そして、「蜜」には「重さ」と「ねじれ」という二つの存在形式があり、「重さ」は「同じ構造の異なる反復があるボリュームを持っていること」であると言われていた。この「重さ」の具体的な例として「問い-こたえ(答え/応え)」の話が出てきていたのである。しかし、私は思っている。この説明は失敗するだろう、と。それはなぜか。それはおそらく、「ボリュームを持っている」がどういうことかよくわかっていないからである。だからとりあえず定義を少し緩くして「重さ」を「同じ構造の異なる反復がある」にしよう。いや、この定義だと「重さ」にならないので、なににしよう、「リズム」にしよう。とりあえず。

さて、「リズム」とは「同じ構造の異なる反復がある」ことである。それが「蜜」を生み出すわけだ。例えば韻というのは「蜜」を作る一つの手法である。韻にもたくさんあると思うがとりあえず異なる言葉の母音が一致することであると考えよう。なんでもいいが、「才能」と「胎動」は韻を踏んでいると言える。別に全部一緒である必要はなく、「感覚」と「シーバス」は後ろの二音が一致しているから韻であるし、「ギャンブル」と「短冊」は前の二音が一致しているから韻である。別に文字数を揃える必要もないし、別に言葉を跨いだり言葉の真ん中にあったりしても「異なる言葉の母音が一致する」なら韻と呼んでも差し支えないだろう。ここでの「同じ構造」というのは「母音の並び」である。そして「異なる反復」というのは「子音の並び」である。だから韻は「蜜」を作る一つの手法なのである。

韻は音に着目した手法だが、あるシーンのオマージュというのは「同じ構造」が「シーンの構図」や「シーンの文脈」であり「異なる反復」が「シーンに登場する具体物」であることになるだろう。別に他にもあるが、それは置いておいて抽象化するとすれば、Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがあるというのが「リズム」なのである。と言ってみて、「リズム」はもう少し複雑であると思った。なので「リズム」ではなく、うーん、とりあえず「蜜」を作る一つの手法として「同じ構造の異なる反復がある」 =(か≒)「Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがある」ということがあることだけ確認しておこう。と思ったが、手法と呼ぶなら「ある」で終わるのではなく「あることがわかる」くらいにしたほうがいいかもしれない。が、それだと話がもっとややこしくなるので、「蜜である」という状態が「同じ構造の異なる反復がある」もしくは「Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがある」ことからわかる、くらいにしておこう。

眠たくなってきた。ので寝る。お昼だがまだお昼ご飯を食べていない。

眠いので起きたとき用にメモしておこう。「ねじれ」は「同じ構造の異なる反復をそれとしている基盤的構造が反転する」ことである。「Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがある」はすでにその反転可能性が否定されているから=と言い切れなかった。眠くてもう書けない。おやすみなさい。

おはようございます。意外とたくさん寝てしまいました。吐き気がします。

まあ、それはよいのだが、「ねじれ」について考えよう。とりあえず上のメモを参考に考えよう。

ただ、正直言うとまとまっていない。なんというか、色々なことが干渉してきてしまってよくわからないのだ。しかし、形式的には理解しているつもりである。つまり、「ねじれ」というのは類比の「比」が成り立つための構造の反転のことである。しかし、この「類比」が「対比」であっては成立しないのかがよくわかっていないのだと思う。そして、上の説明は「対比」であっても成立することにしている。が、私はそうは思わない。寝る前にどう思っていたのかは知らないが私はそうは思わない。

とりあえず形式だけ示すとすると、「類比」というのは「対比の対比」のことであると考えられる。「対比」を「A-B」のように表すとすると、「類比」というのは「(A-B)-(C-D)」のように表すことができると考えられる。このとき「A-B」と「C-D」はXとYと表すことができるだろう。つまり、「(A-B)-(C-D)」は「X-Y」と表すことができるだろうということである。しかし、「(A-B)-(C-D)」は「X-Y」と表すことができるというのは両者をいつでも入れ替えることができるということではない。それでは「類比」を「対比」とは異なるものとして、すなわち「対比の対比」として考えていることにはならないだろう。「(A-B)-(C-D)」は「X-Y」と表すことができるというのは例えば「(A-B)-(C-D)」における「A〜C」「B〜D」(この「〜」は「から」でもなければ伸ばし棒の一種でもない。「類比」において対応していることを指す。)の二つともが成り立っていることを「X-Y」は表しているということである。しかし、ややこしいことだが「X-Y」も新たな「類比」における、すなわち「対比の対比」における前半の「対比」になることもできる。つまり、「A-B」はX、「C-D」はYということになって「X-Y」が「対比の対比」の後半の「対比」であるという制限が取っ払われることもできるのである。しかし、それはただの忘却であり……

話は長くなったが「反転」というのは「対比の対比」における後半の「対比」が反転することを指している。ここで重要なのは「類比」がそれとして成り立つのは「対比の対比」の後半の「対比」すなわち「X-Y」が安定しているからであるということである。

このことは例えば、とても単純な二項対立を考えるとわかりやすいかもしれない。その二項対立は「友/敵」という二項対立である。

しかしここで考えておかなくてはならないことがある。それは二項対立と「対比」の関係である。私は上で「対比」で「○-●」という書き方をした。これは二項が対化していることだけを指そうとしたからである。仮に「対立」を「○/●」と書くとすれば、それの成り立ちにも「○-●」が必要であると私は思う。なぜなら、そもそも「対化」していない二つの事柄は「対立」しうる「二項」ではないからである。これは言い換えれば「-」がすでに「二項」がそれであることを支えているということであり、それはもはや「対化」できないことであるということである。これは例えば、属性であると考えられる。例えば、「友/敵」が成り立つためには「友-敵」が成り立っていなければならず、それが成り立つのは「二項」ともに「人間」であるからである。それが明確に「対化」するのは、つまり「二項対立」となるのは「闘争」という条件下において、である。仮にずっと「闘争」状態にある人がいるとすれば、そもそも「友/敵」は「二項対立」なのだろうか。しかし、ある意味でそういう状態にあることを仮定しなければ「二項対立」は成立しえないだろう。しかし、この条件の議論と上でした「対化」における「二項対立」と「対比」の議論は別の議論である。関係がないということではないが。

ところで、私が「友/敵」という「二項対立」を取り上げたのは私がある事柄について言及したいからではない。ただ、この「二項対立」はたくさんある私たちの「類比」の可能性を極端に狭めるものであり、それゆえに反転も劇的に見えると思ったからである。あとは『友と敵の脱構築』という本の影響もあるかもしれない。

ここから私は私とAさんとBさんがいるとして、という仮定をして話し出そうと思った。だが、私には大きな問題がある。それは「個人」ということがよくわからないということである。そしてなぜよくわからないのかもよくわかっていないし、「これがわからないんだ!」とうまく言える気もしない。なので散歩してこよう。『友と敵の脱構築』のメモを読みながら。

ここからはメモを見ながら考えたことを箇条書きしておく。(ちなみに()内は頁数である。箇条書きにしていることを思いついた頁数り別に厳密さゆえにこれを書いているわけではない。もしかすると変わった人がいてここで引き合いに出している本に直接あたりたい人がいるかもしれないから書いている。あとは私にもう一度読ませるために書いている。後から思いついて番号も振っている。)
1.シュミットとムフ、殲滅とネタ、「対立してみようぜ!」という令和ロマンのくるま。(9-10)
2.「どういう環境下であれば、感情は、他者の苦痛への共感となるのだろうか。逆に、どのような条件下であれば、感情は友敵関係へとつながるのだろうか。」(23)。わざわざ対比したり対立したりすること、対化すること、それは不思議なことである。→2-2 「「感情研究」のなかでも、皆が共有できるような「感情」の定義はない。だが感情には、「こういう性質は間違いなくあるだろう」と認められる要素は指摘されている。その性質とは、受動的に発生すること、そして個人差があるということだ。」(25)→2-3「「理性的である」ことを重視するスピノザにとって「感情」は、理性を脅かすこともあるが、同時に、理性的になるためのエネルギーにもなりうる二面性をもつ。」(28)これは1.と関係が深い。→2-4ムフは「「触発」を言説的なものと情動的なものを節合し、同一化の特定の形式を生み出す実践であると考えるのだ。」と述べている(29)
3.「実のところ、「制限された歓待」とは、理想的で無制限な歓待を前提にしなければ、考えることはできない。無制限に歓待するという前提があって、はじめて「どう制限をかけるのか」という問いが生まれるからだ。」(36)「理想的な歓待とは、他者に自らの場をあたえ、到来させ、わが家のなかで他者のままいさせるようなあり方だ」(36)シュミット的に極端でも、ムフ的に中庸でも疲れてしまう。シュミットとデリダの間を揺れていること自体がムフ的であるように考える必要がある。

あの、41頁までしかいっていないがこの方法、とりあえずメモを読んでみるという方法は得策ではなかったかもしれない。ここでしたい話からずれていることも拾ってしまう。し、そのくせ別にうまくつながるわけでもない。が、まあいい、読んでこよう。

4.「脱構築へとむかう感情とは、未知への恐怖と驚愕である。しかし、感受性あるいは恐怖と驚愕からは、二つの歓待が派生する。一つは、恐怖の克服であり、憐れみであり、制限がない不可能で理想的な歓待への道である。いま一つは、恐怖の温存であり、他者を巨人とよびつづける、制限された歓待への道だ。」(44)ここでの「巨人」はデリダの用語である。(「未知の存在、いいかえれば、まだ「他者」と記述される以前の他者への「巨人」という名づけ=最初の言葉は、自己の感情(恐怖と驚愕)から発せられる。」(41))それは注意しつつなお重要なのはここでの「脱構築」と「ねじれ」は似ているということである。ただ、「ねじれ」は「他者」に向かっているというよりもむしろ、いや「他者」の「歓待」に向かっているというよりもむしろ「快楽」に向かっている。
5.(45-46)ではこの「敵」の記述において、ほとんどが前者になること、つまり再び「巨人」として記述することになることを指摘されながらも、後者のずれが時間的に繰り返されることによって「憐れみ」として記述すること、つまり他者を他者として記述することによって乗り越えられる可能性があると指摘されている。「反復可能性」と「反覆可能性」。しかし、「反覆」もまた「反転」の一種に過ぎないのではないか。別にプライオリティを主張したいわけではないが。
6.あまり関係のないことかもしれないが、カウンターカルチャーが成り立つときに「反転」は「反覆」になりうるのかもしれない。し、それはある意味で幸福なことであるように思われる。「敵がいる」と「敵を作る」。ラップスタア誕生のTohji。尾崎豊。
7.「「敵がいるから友が見いだせる、それならば友を見いだすためには敵が必要」<中略>なぜこのようなことをする必要があるのか。それは「友と敵が否定される世界」を否定するためにだ。」(51)これについては2.で一度触れている。
8.集団的アイデンティティと個人的アイデンティティの関係性。(52)
9.「「未来を開く」とは、こうした「いま」から未来へと意識を向けることだ。「幸運を信じる」(デリダ)とは、「未来を信じる」(ローティ)のではなく、未来へ開かれた「いま」を信じる(肯定する)ということである。「友」と一緒に「敵」を名指して闘争する考え方には、この未来への開きがない。というのは、友敵関係とは、「友」が「友」でありつづける、「敵」が「敵」でありつづける同一性の世界観を前提としているからだ。実は、こうした同一性の思想こそ、多分にロマンティックな信念といえる。」(64)ここで急に「同一性」の問題、上で言ったことでいえば「個人」の問題が現れてきた。これは8.とも関係が深い。
10.「友敵関係の思想、それは「現実をみよ」と述べているのではない。「現実をみるな」と叫んでいるのだ。」(65)これは洞察かつ啓発である。が、私は「快楽」の意味からもこの叫びが騒がしく感じてしまう。5.と関係が深い。
11.「「友」や「敵」は自分である。自分のなかにある「友」と「敵」という定義によって他者を理解しようとするとき、友敵関係がたちあらわれてくる。しかし、それは自分が思うところの他者であり、他者そのものではない。友敵関係の脱構築とは、この自己の思いこみを打破することである。他者を自同者として扱うことをやめるということは、自分が思うところの他者ではなく、他者そのものを想像することによってありうる。ここに二項対立の動揺と、他者の他者性を想像することがむすびつくのである。」(65)最後の一文を私なりに理解するとすれば、快と不快の動揺は享楽を実践することと結びつくのである。しかし、その実践はチューニングされなくてはならない。「破壊衝動はチューニング」とLIBROも言っていただろう?「特異性」(ラカン派精神分析)
12.「「友」と「敵」の二項対立は、自身が能動的に動揺させていくものではなく、到来する他者によって動揺させられるのである。」(74)これは1.の「対立しようぜ」と関係が深い。あとはサモハンテレビジョンの「右左どっちで左翼になった人」が一つの優れた表現であると思う。
13.「なぜ友敵関係を訴える者たちは、個人・個人主義を批判するのだろうか。その理由は、友敵関係とは一般名の二項対立であり、固有名は一般名の記述を動揺させる可能性があるからだ。」(80)ここでの「個人」は私の理解するそれと違うと思うが、それを踏まえると同意できる。し、しかし、「動揺」してばかりだともはや「動揺」はそれとして存在しないのだ。「外れ値」が存在するためには外れていない値が必要なのである。
14.「政治的なもの、友敵関係、一般名と一般名の二項対立を動揺させる立場は、最初から最後まで個人を語ろうとする。」(83)これはカウンター的な語りだが、私はその「カウンター」が存在するためには何が必要なのかも気になるのだ。それがないと話をすることすらできないと思うのだ。
15.「「友」と「敵」は同一性(必然性)の思想である。すなわち今日「友/敵」であった者が、明日も「友/敵」であることを前提としている。「友」と「敵」は自分なので、自分が今日も明日も変わらない必然性があることで成立する。この必然性の世界観を否定することが、友敵関係を動揺させることにもなる。だから、必然性を動揺させるもの、すなわち偶然性を論じることが求められるのである。」(103)私はかつて「偶然性」を愛していたのだが、いまはそれほどでもない。なんというか、「偶然性」の語りは「運命」の語りになってしまうからである。そして「運命」の語りは「努力」に傾倒することにつなげられてしまうからである。私はそれが嫌で嫌で仕方ないのだ。これは6.と関係が深いかもしれない。
16.「共感には、偶然性における共感と、必然性における共感があるということだ。偶然性における共感とは、スミスやローティのような、他者と自分をいれかえ可能とする共感である。他方で必然性における共感とは、ロールズが批判的に述べる、いれかえ不可能な共感、本書の言い方をすると、「友」への共感、他者を自分の思うところの他者とみなす自同者としての共感ということになるだろう。」(113)私はこういうことにあまり興味がなくなってしまった。なぜなら、本当に「いれかえ可能」であるなら「自分」も「他者」もそもそも成立しないと思うからである。これは時間を例にとっても同じことである。永井均。
17.生存者バイアスというのは本当に「バイアス」なのだろうか。私はどうもよくわからないのだ。さまざまなことが作用している総体をある個体の「バイアス」であると言うことなんてできるのか、と思うのである。(118)8.と関係が深い。
18.「不運とは、不安や絶望に陥ることではなく、他者に開かれず、自己に閉じこもる必然性にとりつかれつづけることだ。」(130)/「幸運とは、自己を閉じずに、他者をむかえいれて、他者の他者性を想像し、自己が生成変化していく可能性に開かれることである。」(131)この対比を私はあまり理解できない。それがなぜなのか、私はわからない。

さて、「本を読む」こと、まあメモを読んでいるだけだが、それが楽しくてよかったと思って、別にもう話したいことはない。ただ、それでは……

とりあえず1から18まで読み直して関係がありそうなところから話し始めよう。

さて、かなり面白かった。それはいいとして、私はなんの話をしていたのだろうか。ああ、「ねじれ」か。「ねじれ」は「反転可能性」のことである。それは「反覆可能性」のことではない。おそらくこのことがここで関係することだろう。番号で言えば、1.3.4.5.6.7が直接的には関係が深い。(間接的には、というよりおそらく根源的には、私にとっての根源としては8.が、実践的にはここまで出ていない番号すべてが「関係が深い」と言えると思う。)

「ねじれ」というのは一つの安定した均衡である。ここでの「一つの安定した均衡」というのは「裏返す」がそれとして成り立っていることを指す。それが成り立っていないのは例えばラップスタア誕生でTohjiが「昔の人なら大人が悪者だったのに/俺らは一体誰に立ち向かったらいい/目に見える不満がないことが俺らの不満で/つまんないこのぬるま湯からもう出たい」と歌っていたように「反転」がそれとして存在する余地がないということである。それを開くのが「ねじれ」である。とりあえず何かで余地を作り出すのである。

ごめんなさい。久しぶりに聴いたらすごく響いてなんだか書くのが億劫なのでとりあえず置いておきます。もう一度聴きます。

いい歌だった。

さて、「ねじれ」が「蜜」を生み出す二つの手法のうち一つであるというのは「ねじれ」は「快楽」だからである。しかし、「快楽」は持続するのだろうか。というのも、「ねじれ」は「反転」のことであるのか、それとも「反転可能性がある」状態のことなのか、それがよくわからないからである。このよくわからなさはおそらく「リズム」と呼び損ねた「蜜」の作り方でも同じである。持続するとするならば、それらはおそらく状態なのであろう。状態を作り出すことが手法としての「哲学」なのだろう。しかし、それではあまりに実践的ではない。し、旨味がない。甘いだけである。

さて、不意に「文学」に触れてしまったせいで私はある気分に落ち込み、落ち着いた。底まで来てしまった。「哲学」は結局底ではなかったのだろうか。状態だけだとするならそれはおそらく「文学」とは異なる底であることになるだろう。甘い、春のようなドーム、「文学」は澄んだ、冬のようなドーム。しかし、どっちも結局夕焼けは素晴らしい。青く、素晴らしい。Tohjiは言っている。「俺の見える青色と君の見える青色は全然違う」と。しかし、素晴らしいことに変わりはない。私はこの歌詞を知っていたし、そのことに関する哲学の考察、逆転クオリアみたいな話も知っている。し、そのクオリアがどういう構造なのか、なぜ生まれるのかについてもある程度のことを知っている。しかし、その愛、寂しさのようなものは知らなかった。それがまるで透明なトンネルを通って直通してきたのである。Tohjiのドームから私のドームに。

結局「海/蜜」という対比はねじれていた。と言わざるをえないだろう。しかし、どうねじらていたかについてはよくわからないところがある。「海」の上には、「海」があるためには「陸」が必要であるのか。私にはわからない。二つのパターンがあるだろう。ここでのねじれには。一つは「文学/哲学」という対比を「海/ドーム」と「X/蜜満ちたドーム」という対比で理解しているというねじれ。Xが何かわからないのだ。もう一つは「文学」の「ドーム」はどういう「ドーム」なのか、まるでわからないのである。二つを合わせて、なんと呼べばよいか、受容と表現の連関、みたいに呼ぶとすれば、もしかすると「地球/海/蜜満ちたドーム」みたいな階層性を考えることもできるかもしれない。だから、私は誤認していたことになる。「地球」を「海」であると。よくわからなくなってきたがそもそも成功する予感はしなかった。失敗作を出すのは心苦しいが直通を願って出すことにしよう。もはや推敲する元気はない。し、それがあるときがある気もしないので推敲もせずに出す。

疲れた。ただ、嫌な疲れではない。スカッとした疲れである。みなさんはもはや読んでいないか、嫌な疲れを得ただけかもしれないが。

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