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ずっと一緒にいたかった。

 今日から十一月、早いもので今年も残り二か月を切った。

 つい最近まで酷暑で苦しんでいたかと思うと最近は秋の過ごしやすい気候である。

 今日は一が三つ並ぶ日なのでワンワンワンと読むことができる犬の日なのだそうだ。

 犬の鳴き声は感情の変化を如実に表しているので興味深い。

 私の実家もその昔犬を飼っていた。

 当時は血統書付きの犬を飼うことが流行ったが我が家にやってきた犬はまごうかたない雑種だった。

 犬のしつけはその昔ブリーダーでバリバリ稼いでいた祖父が担った。

 その教え方はスパルタでいうことを聞かないと怒鳴り散らした、あまりに言うことを聞かない時には手も出た。

 私は自分の弟分ができたみたいな気分で可愛がった。

 散歩も積極的に連れて行ったし餌の支度もやっていた。

 餌は小さいころは温めたミルクで少し大きくなるとご飯に味噌汁をかけた犬まんまを食べさせていた。
 
 そのうちに犬まんまだと栄養が偏ることを知ってからはドッグフードに切り替えた。

 私に似たのか食欲旺盛な犬で餌へのがっつき方は見事なものがあった。

 中型犬だったのだが犬を溺愛する父は家の中に連れ込んで舐めるように可愛がっていた。

 そんな愛情を一身に受けた犬だがどんな生き物にも寿命というものがある。
 
 祖父は犬より先に亡くなったので父が最後を看取ったそうだ。

 犬を亡くした喪失感はなかなかのものがあり主のいない犬小屋を見ると胸が締め付けられる思いがした。

 生き物を飼うということは大きな責任がついてくるということを学んだ。
 
 その愛犬の好物だったのはお肉だった。

 実家の庭で焼き肉をする時には狂おしいほど切ない鳴き声を上げた。

 熱い肉を与えると火傷するので犬用に少し取り分けておいた肉を焼くのは私の担当だった。

 焼き肉の時はお酒が進むのでたいていは酔っぱらって犬の分の肉を焼いたものである。

 本当は半生くらいが美味しいのだろうがいつも焦げ気味に焼き上げて、ほら食べなと言って犬の前に持っていくのが常だった。

 お肉に対する執着はかなりのもので持って行った分はあっという間に平らげた。

 それでまたなんとも切ない声でお代わりをせがむのである。
 
 それがいじらしくて追加で肉を焼いて与えた。

 ガフガフと鼻を鳴らしながらこれまたあっという間に食べてお代わりをするのだがこれ以上はもったいないと父が言うのでお代わりを含めてもそんなに大量には食べられなかったと思う。

 焼き肉の時は家族や親戚が集まって賑やかに盛り上がるので自分も混ぜてもらいたかったのかもしれない。

 他によく食べさせていたのは鶏のささ身である。

 晩年に歯が弱って固いものが噛めなくなったのでカリカリのドッグフードを残すことがあった。
  
 年も年だし何とか栄養をつけてもらいたいと思って好物のお肉からささ身を選んだ。

 ささ身を茹でて冷ましてから細く割いて牛乳に浸したものを与えるとしっかり完食した。

 それを見てよしよしと思ったものである。

 晩年は私も実家から離れて暮らしていたのであまり犬の面倒を見ることができなかったのが心残りである。

 眉毛がすっかり白髪になった犬は十八年生きた。

 犬の日の今日は思い出に浸って過ごそうと思う。

 山に一緒に散歩に行ってスズメバチに追い回された事とかリードを振り切って逃走した事などエピソードには事欠かない。

 動物を飼うと責任感が芽生えるのでいい経験だと思う。

 甘えて寝転がってお腹を撫でてくれぇと横になる姿も懐かしい。

 ああ、いけない思い出すと少し涙が混じりそう。

 もう一度でいいから一緒に歩きたかったなぁ。

 せめて夢で逢えたらいいな。

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