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8月20日『場末のカラオケ喫茶から聞こえる歌声は何故もれなく上手いのか』

 知らない土地でも2度来ればもう、そこは第2の故郷である。寂れた商店街の真ん中にある中華そば屋で油そばを食べて外に出ると、さっきまで開いていた古書店がもう閉まっている。午後7時で既に千鳥足のオヤジに、早足のリーマン、重心を低くとるチーマー、どれも見慣れたものである。

 大通りから1,2本外れた裏路地へ入ってみる。時の忘れ物のような景色がまだそこらに残っていて、日が落ちて暗幕に包まれたそれはさながら停止したモノクロビデオのようだった。思わずシャッターを切ってしまう。
 小綺麗な木の板にメニューがびっしり書き込まれた小料理屋の看板を見ると、”生活”を感じる。何の気なしに品目を見てみたりしていると、昼間でも陽が当たらないであろう立地であることに気づく。軒先に掲げられたランタンは煌々と明るい。車1台がやっと通れる広さの道の向こうから小型の代行タクシーがやってきた。私は慌てて脇に逸れる小道に逃げ込む。

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 カラオケ喫茶というものは一体どんな需要から成り立っているのか、資金源はなんなのか。おそらくママの名前であろう、文字が平仮名で書き込まれた看板。繁華街の中心から放射状に点在しているカラオケ喫茶に、街を攻略したがる若者はいつまで経っても入ることができないのである。カラオケ喫茶がある限り、街の全クリは叶わない。
 街の中心でずんと構えるチェーンカラオケ店に押しのけられるように繁華街の隅にたどり着いたようには見えない。むしろ、望んでそこにいるかのような貫禄さえある。亀の甲より年の功、年功序列、終身雇用。日本の古き良き(今は悪しき、なのか?)文化を体現するような存在である。

 前を歩いていたオヤジがふと、視界から消えたかと思うと、右前方のカラオケ喫茶の扉が閉まったのが見えた。その吸い込まれるような足取りに若者のような迷いはない。擦り減った革靴で軽快なステップを踏めるようになれば私が街を攻略できる日も近いだろう。スニーカーを履いて躓いているようでは未だオヤジにはなれない。くたびれたスーツをくれ。

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 哀愁たっぷりのメロディが半開きのドアから音漏れしている。換気をしているのは結構なことだが、その気持ち良い歌声まで無料で垂れ流しているなんてこのママ、只者ではない。思わず足を止めてしまったではないか。いやしかし見事な歌声、思わずカラオケ音源かと思ったほどだ。歌っている本人の姿形は見えずとも、熱唱するママのシルエットが見えた。

 場末のカラオケ喫茶から聞こえる歌声は何故もれなく上手いのか。私の永遠の議題。街を攻略するカギ。裏路地を抜けてふと振り返ると、妖しいネオンがまるで「オトナになってから出直しなさい」と私に言っているような気がした。

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