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まだまだ修行が足りないね

このあいだたまたま入ったご飯屋さん、BGMがなくてとっても静かだった。もしや開店前だったかしら?と思ったけど、さもうちではこれが当たり前だぜ、という素ぶりのご主人が「いらっしゃい」と無関心と不機嫌の間のような声色で出迎えてくれた。そんな静かな店内で過ごしている時に思ったことをメモメモ✏️

ご主人とふたりきりの無音の室内に「ポークカレーお願いします!」とイヤに明るい私の声色が響く。その様に少し疎ましそうな素ぶりを見せつつ、これまでの長い接客生活で身につけたスルースキルで「あいあい」という流れるようなご主人の空返事が続く。「お客さん、これ以上ムダなおしゃべりはよせよ」と言わんばかりの無言の圧力に、安心感とも似た孤独感を覚えた。

ご主人にしっかり放っておかれてしまうので、キッチンから洩れ出るジュージューという音、食器どうしがぶつかり合う音、カレーを食べているとき耳の内側から響く咀嚼音に耳を預ける他、この孤独感を埋める方法は無い。店内には文字も置物もほとんどなく、なんなら仄暗いため視界も当てにならない。ひたすらポークカレーと向き合う時間でふと、普段の生活でどれだけの情報をインプットしているか、痛感した。

私はしばしば外界との関わりを遮断すべく、移動中に大音量の音楽が流れるイヤフォンを耳に装着したり、あるいは思い切ってスマートフォンを自宅に置いたまま外出したり、あるいは聞いたこともない街を半日ほど彷徨いたり、本やゲームや落語鑑賞と、試行錯誤しつつひとりぽっちの環境をつくっている。(寝ることはできない、それができたらいちばん助かる。)

というのも元より、かなりのおせっかいである故、目前のあらゆる生き物や作品たちが気になって仕方がない。大人になってからわりかし、ほな君の判断を信じよう!と思考を放棄する術も身についてきたけど、少しでも眉毛が八の字を描いている生き物を見ると、その何から何までを吸収したくてたまらなくなる。
昔から本やゲームを好むのは、自分の思考を止めるための手段だったように思う。これでは、ほとんど妖怪みたいな薄気味悪さがあるけど、でもこれがウチやから、許したって。

「本当は目の前にあって手で触れられるものにどれだけ向き合えるか、これだけしっかり大事にできればいいんだ」とかいかにも世界の核心に触れたぜ!みたいなこと思ったり。「私にはそれができる!!!んだけど、大事にしたい対象が多すぎて、たまにパニックを起こしているんだなあ」とぼんやり思ったり。まあコレクター気質ですからねえ、ゲームでも頻繁にセーブするし、、なんか結局社会ってかわいいものが多すぎるから、距離感バグとか起きちゃうんだよなあ、、てゆうかあの時のわたしきついよなあ、、いや?きもいだよなあ、、わ、なんかわたし今鼻息荒くないかな?って、あれ!嘘?結構人入ってきたよこの店、うわあどうしよう、早く帰りたいなあ、てかこれどのタイミングでお会計したらいいやつ?うそでしょ、グループのお客さんに囲まれた!ああ、もう帰りたいなああああ、、、!

と、そんなことをとめどなく考えてたので、目の前のポークカレーがどんなだったかはっきりと思い出せません。アホです。

まだまだ修行が足りないね。


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