解毒剤は自分

 毒親の毒が猛毒過ぎて、解毒剤はあるのか?と、落ち込んだ。猛毒ゆえに、結局は「蛙の子は蛙」のままで、その毒の影響から抜け出せないと、絶望感で一杯になった。
 が、私の中のわたし、は「いや、違う!」と、私に訴えている。同時に「彼らに浴びせられた毒を、他の人に浴びせないで。これ以上、傷つくヒトを増やすのはやめて。」と、私に呼びかけている。
 そうなのだ。やっぱり「私は親のようにはならない」と、強く思う。自分がされて嫌だったことを、誰かにしたくない。言われて傷ついた言葉なんか、他の人に浴びせたくない。

 そう考え、またツラツラ思い巡らしている。

 そうこうしていると、必ずと言って良いくらい、何かしら降って来る。なので「○○の考え、休むに似たり」とは分かっていても、思いを巡らせ、考えるのは、やめられない。

 今回もそう。「解毒剤は自分自身」これが降って来た。
 
 毒親たちの毒を私は、どう受け止めたのか。彼らの毒は私に、どう作用したのか。それが分かるのは、私。それを感じているのは、私自身なのだ。そして、私にだって、回復力、復元力はある。自己免疫力も。
 交流分析にも「人生脚本は、いつでも、如何様にも、本人が書き直せる」とある。
 絶望しなくていい、諦めなくていい。「自分で」デトックスし、人生脚本を書き直す。
 
 これまで、私の中のわたし、が、すべてを受けて、私の防波堤になってくれていた。私を生きる方へと、引っ張り、押し出し、支えてくれた。確かに、生き延びさせてくれた。
 自分の味方は自分、同時に、自分の敵も自分と、実感している。これからは、私の中のわたし、と二人三脚、協力して、毒親たちの毒を解毒して行く。慌てず、焦らず、絶望せずに。

 併せて。
 他人に対して言わないこと、しないことは、自分にも言わない、しない。これまで私は、どれほど自分で自分を傷つけて来たか(だから、自分の敵は自分と、思うのだ)。私の中のわたし、に、心の底から謝罪する。生き延びさせてくれたことに深く感謝し、その労をねぎらう。

 「私の中のわたし」と言えば、サッカーの本田圭佑選手が、外国チームに移籍が決まった際「リトル 本田が……。」と、語っておられた。最近では、作家の五木寛之氏が「自分の身体の声を聴き、それに従う(従っている)」と述べ、俳優の片岡鶴太郎氏も「心の声に従う(従って生きて来ただけ)」と、語っておられる。これらこそ「私の中のわたし」ではないか。
 才能に秀で、既に著名人であられるお三方 “だから” 言える言葉、とは思わない。市井の人々、いわゆる庶民、の、ひとりひとりにも、「リトル◯◯」は内在し「内なる自分」が声を発している。その人自身が、それに気づくのを待っている。

 
 

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