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長寿より、第三の人生を

 10年ぐらい前に、秋元康「象の背中」と重松清「その日の前に」を読んだ。当時、"死"ということを特段意識していなかった。だから、淡々とそれらを読んだ。
 その後、父が亡くなった。その時も、精一杯介護をしたので悲しくあっても、"死"ということへ向き合う気持ちは起きなかった。ただ冥福を祈り、あの世での再会を誓っただけだった。
 また高校のクラブ活動中に親友を失った時には、抽象的に模索した。半世紀近く前だ。一方、その後に同世代の友人は欠けていない。

 ところが自分がこの年になって、死について考える時間が増えて来た。一回り上の方々が欠けて来ている。先輩方や芸能人や文化人だ。三木清は「人生論ノート」で、怖くなくなったと語っている。ボクも怖くはないが、退け際を考えてしまう。  
 そもそも、そう長く生きたいとは思わない。また、行き先は宇治平等院の極楽浄土へ行きたいと決めている。だが、勝手に逝く方法がないからだ。
 ほとんどの家庭が、子育てよりも老人介護に苦労をしているのが現実だ。しかも、嫁姑問題の延長線にある。ややもすれば還暦を迎えた世代が、高齢者を老々介護しているのが現実だ。ようやく生活を一段落した息子夫婦はシルバー生活を楽しめていない。さりとて、その下の世代は浮世の通過儀礼で精一杯が普通。だからこそ、ボクは長生きをしようと思わない。そして、息子二人は家内を養ってくれるよう教育した。
 ボクは宇治平等院の極楽浄土を目指す。第三の人生は、極楽トンボになること。もちろん、自分のすべては無駄遣いせず家族に残す。月25万、年間300万、3年で1,000万、こんな介護費用をボクにかける必要はまったくない。貯蓄は家内へ、動産・不動産などは息子2人で相談すれば良い。ボクへの介護費用はこよなく0(ゼロ)でありたい。
 また、健康に応じて働ければ働く。短時間でも良い。日数が少ないのもあり。というのも、悠々自適に過ごしている方よりも、自分らしく仕事をしている方のが生き生きとして映る。特異ではあろうが、82歳の先輩が仕事帰りにいろいろな話をしてくれる。話題は健康や読書や芸術など、幅広い分野。また、休みの過ごし方なども。ボクは82歳になる前に、宇治平等院へ向かう予定だが。

 先の二冊から家族の絆を学んだ。心に沁みた。著作の主人は共に若い。家族構成も異なる。しかし、基本的に家族はそうありたい。
 若者が老人を支えてきれない人口構成である。また、国が若者を増やそうとしている。これは、形式かなとも感じる。しかも、AIなどの進化で労働の構造もかわると思う。

今や、若者が高齢者を支えきれない社会だ。いかに自己完結した生き方ができるか?これがボクの課題であり、解決が理想だと思う。ボクは第三の人生(極楽トンボ)を夢見ている。



かわせみ💎

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