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河豚🐡

河豚は、かの徳川家康をして、毒にあたって死んでも構わないから食べたいと言わしめたほどの美味な魚である。

河豚が食べたい

クリスマスが近づくと、街は華やかになる。
街中に浮かれた音楽が流れ、ツリーやイルミネーションがピカピカ光り、普段と違う恋人たちのロマンチックな雰囲気が漂う。
クリスマスの定番の食事といえば、ホテルやレストランでのクリスマスディナー、サンタクロースの砂糖菓子が乗ったクリスマスケーキ、大きな鶏の丸焼きなどであるが、私にとってのクリスマスは、圧倒的に河豚である。

河豚をおいて他にはない。

美しいイルミネーションやショッピングモールで流れるジングルベルのBGMは、私にとって、ああ、もうそろそろ河豚が食べたいなあ、と思わせる何かでしかない。


私が、初めて河豚を食べたのは、確か四年ほど前であったと思う。
日暮里の小さな料理屋で、年上の恋人と一緒に食べたのが、河豚の鍋だった。初恋の人だった。
普段からよくその店には行っていたが、河豚は冬の時期限定で、ディナーでしか取り扱われていなかった。それに、値段も書かれていないので、簡単には手が出ない。
何か特別な理由なしには、その店の河豚を食べることはできなかった。
だから、当時の彼が、クリスマスプレゼントに河豚という粋なんだか野暮なんだかわからない演出をしてくれた時が、私にとって初めての河豚であった。
彼が、これがクリスマスプレゼントだよ、と言ったとき、私は内心少し微妙だった。私だってまだ若い女子大学生だったのだから、ロマンチックな夜景の見えるレストランなんかでネックレスやら何かのプレゼントをもらうような想像をしないこともなかった。
けれど、その考えはすぐに覆されることになる。

河豚は、一見ただの白身魚である。
なぁんだ、ただの白身か、なんて思ったのも事実だ。

しかし、口に入れると、その食感はまるでエビのようにプリプリしていて、エビよりも優しく、噛むたびにモキュモキュと音がなる。
脂が乗っていてもブリのような魚臭さは無く、だからと言ってタラのようにパサついてもいない。

これは本当に魚なのだろうか?

箸が止まらなかった。河豚は、私の知っているどの魚とも違っていた。
私たちは、河豚を一口食べ、うーん、と唸り、また一口食べ、うーん、と唸った。
無駄話は一切せず、河豚の美味しさだけを唸り声で表現し合った。

私たちは、河豚を惜しむように食べたのにも関わらず、あっという間に完食してしまった。普段はお喋りな彼が、その間だけはほとんど喋らなかった。

いやぁ、これは堪らんなぁ

時々、そんな彼の声が聞こえた気がした。

彼は満足そうな顔をしていた。表情が緩みきっていた。この上なく幸せそうだった。
多分、私も同じ顔をしていたと思う。

おいしい、うれしい、すき

その瞬間に感じた安心感は、今でも超えられたことがない。

私たちは、秘密を共有し合った共犯者のような気分になった。あの店の河豚鍋は、他の人には教えられない私たちだけのモノなのだと、根拠もなく確信していた。

河豚を食べた帰り、おしゃれなレストランから帰ってきたカップルたちを大勢見かけた。
けれど、全く羨ましくなかった。
彼らは、こんなにも幸せな気持ちになるあの店の河豚鍋を知らないのだ。
そして、その後に感じる二人だけの秘密を、他の誰にも立ち入る隙のない程確かな絆を知らないのだ。

結局、その彼とは別れてしまった。
でも、未だに、私にとってクリスマスは河豚である。
圧倒的に。

#クリスマス #河豚 #初恋 #エッセイ

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