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百日紅を見ると思い出すこと。

夏の暑い盛り、紅や白、ピンクとそれぞれの色に開き秋まで長く咲いている百日紅を見ると数年前のこととある方のことを思い出す。

当時は後から思えば病気がかなり進んでいたらしくずいぶん心身の調子がおかしくなっていて、一応は仕事と生活をしながらも思うようにならない日々がかなり続いていて、病気を意識せざるを得ず、どころかもうやばいのかもと感じてはいたが、それでも仕事がひと区切りつけばなどと思いながら何とか踏み留まろうとしていた頃。
(後から思えば完全な思考停止・固着でしかなかった…)
そんなでいた夏前頃、その秋に退職を迎えるお世話になった方を数年前一緒に仕事したメンバーで送る会の知らせが届いた。
ぜひにと思っていたのに結局そんな状況で何ともならず欠席したが、どうしてもひと言挨拶とお礼を言いたくて後日その方のいる職場へ向かった時のこと。

その日はとても暑かった。
最寄駅からの道すがらは、陽射しとアスファルトから湧き出た靄と、都心に近いのにそこら中から聞こえてくる蝉の声に囲まれていた。
その暑さのせいもあったが、おそらくはそれより病気で朦朧としていた中で見た百日紅の花の紅い色がなぜだか強く印象に残っている。

退職が近いとはいえ忙しい身ながら、突然の訪い(忙しい立場の方なので会えなくとも来訪と手土産が伝わればいいとアポ無しでおじゃました)と送別会への欠席のお詫びも気にせずに再会を喜んでオフィスに迎え入れてくれ、しばし思い出話など。
実のところ病気のせいかその時の会話の記憶がほとんどない。
だが自分の状況(体調不良で行き詰まっていることなど)は表さないようにしたのに伝わってしまったのだろうか、自然な会話の流れの中で「(いろいろあるし疲れたりしたら)止まって、休んでいいんだ」という言葉だけは心に残った。
なぜだかこれまでのことが認められ、そしてこらえている今とたぶんもう踏み留まれないのかもと感じていた自分が少し許されるような気がした。

(このこととは無関係に結局この数か月後に休職することとなってしまった)

思えばこの方とは2度一緒に仕事したが1度目はいい印象が少ない。
というよりも当時まだ若く未熟(今もだが)な自分にとってその部署への配置自体が納得のいくものではなく、何とか自分なりの意味ややりがいを見出そうとしつつも不満を抱えていて、結局はとにかく与えられた仕事をこなしていただけのような日々の中でハードルの1つにしか思っていなかったかもしれない。

そんな中で上司としてそこにいた彼は、たいていのことには動じない泰然とした様子と飄々としたところがあり、気さくな人柄で多くから信頼されていた。
それでいながら人との距離感が上手い。
忙しい職場で仕事にちょっと一息入れる時や酒席で聞いた話(好きな日本酒だけでなくたいていのことに知識と一家言があった)のいくつかは今も覚えている。
だが仕事に関してはいたって厳しく忙しいことを理由にすることはせず、特に手続きの齟齬や何より人に関わること(それが誰であれ、いわゆる偉い人についても)に厳しかった。

今思えば自分の甘さを見透かされていたのだろう、それなりにしようとしていても時々出てしまう軽はずみなところや時にしでかしたミス、これまでどおりにやればいいだろうとやっつけでしていたことなどを何度も指摘・指導を受けた。
その持ち場はかなりなブラックな仕事状況で、彼と自分の間にいて同じ状況(立場的にもっと大変だったろうとは後に気づいた)にいながら自分のことを気遣ってくれていた先輩がいなかったらぶち切れるかダウンしてたと思う。
(この先輩には本当に助けられたし、あれこれがあったがこれは別の話)
そんな状況で苦労しながらも自分なりに意義を感じて仕事できるようになれたのはこの先輩を含む周りの助けがあってのことだった。
だからか、そこを離れた後も何度か会う機会があったが時間が経ったせいもあるのか、きつかった当事のことや彼へのこともいい思い出にも感じるようになった。
(自分なり少しだけは成長できたのかもしれない)

次に一緒になったのはそれから10年近く過ぎたあと。
支社のような場所で一応それなりの立場となって仕事していた時に支社長的な立場として彼を迎えた。
その知らせを聞いた時は嬉しくも感じたが、正直にいえば青二才なところ(実はその時も今もだが(^^;;)を知られているのでやりにくさが多かったと思う。

着任した彼は相変わらず泰然としいて、その態度や人柄ですぐに多くから慕われたし、対外的にも重要なポストなのだが外部との関係性や個々の人などの把握と指示も適切で、その仕事ぶりは申し分ないどころかとても素晴らしかった(自分が言うのはおこがましいが)。

自分に対しても変わらずに接してくれるのだが、きっと相変わらずなところがある自分の仕事ぶりには思うところもあったのだろうなとは思う。
もちろん時には鋭い指摘を受け反省したこともいくつかあった。
それでもフォローしつつ乗ってくれた仕事や、仲間と自分でかなり準備した外部の組織・方々の理解と協力なしには成り立たない事業をするための会議がありがちな既定路線に沿ったものでなく同調してくださった外部の方の発言などで盛り上がり、いい方向へ終えられ、直後にもらった褒めと次への示唆はありがたかった。
(もちろんこれらはそれぞれを受け持って駆け回ってくれた仲間の働きが大きくて、終えた後に彼らと飲んだお酒の旨さは格別だった)

しばらくしてあり得ないポストに置かれた。
社内で大きな新事業がありそこへ行く人の穴を埋める配置替え、他に自他ともに適任と目されていた人がいたのでまったく想定外。
これまでの仕事も何とかやっとでいたのに、受け持つ仲間が倍増どころでないし、何よりこれは質が異なる重要なポストで自分にはそのための知識・経験など全てが足りていない。
強烈なプレッシャーで、どう考えても到底役不足で断れるものなら断りたいと思った。
もちろん断れるはずもなく、とにかくやるしかないとそれについたがやはり能力不足を事あるごとに突きつけられる日々…
それでも(後に病気になるまでは)自分なりに頑張ればたいていのことは何とかなると根拠のない自信もあったし、それまでに得た仕事仲間や外部の方々との関係性が助けてくれたりして(自分なりにもがんばったがやはり周囲や仲間の助けが大きい)、自分なりに努め、彼らの期待やそのためにできることをする中で(時には上に無理を通したりも)感じられるようになってきた仲間たちからの信頼感のようなもの。
自信のなさとプレッシャーは相変わらずでもどこかみんなとやればとの少し(かなり)他力本願的な考えも含めいくらかの自信と大きなやりがいを感じられるようになっていった。
できる人から見たら大したことでないかもしれないが、自分にとってはそれを感じたり、ひと仕事終えて帰る時の解放感とやりがいは大きなものがあった。
(それにもちろん仲間たちのおかげで成果を上げることもできた。感謝しかない)

だから、そんなうっすらとした自信ややりがいを感じだしてもていた(後から思えば全く足りてないが…)頃に転勤を迎えた彼に呼び出され、お前に任せたのは間違いじゃなかった、よかった。と言ってもらった夜のことは忘れられない。
きっと気がかりもあったと思うが、こちらこそおかげでかけがえのないものを得ることができて感謝しかない。


それから数年後、別の勤め先にいる時に病気となり、仕事しながらの治療や自分なりに何とかしようとしていたが結局は休職となってしまった。
(前段に彼を訪ねたのはそのもがいていた時のこと)

病気は心(脳の)によるもので、当事やその前からの仕事などにそれなりの状況があったのは確かだし、当事お世話になったカウンセラーの先生が交通事故に遭ったようと表現したように不測のこともあり、それを含むことが重なってのことだったのだろうと思う。
確かにそうしたあれやこれやの要因はあったが、同じような状況でいても病気にならない人もいる(むしろ多いかもしれない)。
かと言って、もちろん個々の人の強弱などではないのも確か。
確かに必然的というのか仕方ないものはあったと思うが、とにかくはただ、そんな状況などがあって、そうなってしまった。
異論はあると思うが、全てが偶然の要素のほうが多い中で体の病気と何ら変わりはない。
だからそれらに責を問うつもりもない。
それに失ったことばかりでなく、得られたこともあったとも感じている。

その休職から復職して数年後、時々急に現れる後遺症的な不調に悩まされつつも何とかやってきていたが、この春の転勤のことでそれまでにない不調となってしまい、かなり行き詰まった状況になってしまっている。
あれほどの思いをし、対処法など含め自分なりに努めてきたのにまたもこんなことで、これから自分がどうなるのか、どうなってしまうのかとそれに包み込まれ、不安で時には何をしてもネガティブな感情しかないことも多い。

それでも病気に限らずこれからもあれこれがあるのは当然で、これからも自分なりにしていくしかないのかと思う。

とにかくは、これからもいろいろあるだろう中で、「疲れたりしたら、止まって、休んでいいんだ」という言葉は忘れずにいたいと思っている。

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