見出し画像

カウンセリングのこと。

数年前カウンセリングを受けた時のことについて書いています。
(できるだけ省きましたが説明上少し病気のことを含んでいます)

近年メンタルヘルスについてある程度その大切さや配意の必要性などが認識されるようになってきて、様々なノウハウや留意すべきことなどへの認知(カウンセリングへの認識を含む)も少しずつ変わってきている印象があります。
(ただこの文意からは逸れますが、メンタルヘルスについて一応は取り組む企業などが増えてきてはいても、まだまだ個の問題として捉えがちなことや世情などを反映してかサクサク白黒判断しがちな現状において餅は餅屋的にバトンを渡して手を離すようなことなども増えているのではと懸念しています)
とはいえメンタルヘルスのことはなかなか自分ごとに思いにくく、カウンセリングについても欧米の映画などにあるように面談から何らかの示唆を得るなどのイメージはあるものの、どこか遠いことに感じている方が多いかと思います。
私自身もそうでした。

私は病気にかなりはまり込んでから受けたのですが、本来は日常に起きる課題や悩みに対処するための手法の1つであり、自身での対処(友人などへの相談を含む)では難しいことを迎えて行き詰まったり、病気など危険な領域に入り込んでしまう前に気持ちや思考を整理して明日を迎えるためのものなのかと思います。
この認識を広め気持ち的な敷居を低くする取り組みの1つで体験談なども紹介されるようになってきています。

すべてのものごとは突然やってくるように見えて何気にじわじわと来ていることも多く、身体と同じようにこころのケアも大切なこと。
そのケアの1つとしてのカウンセリング。
敷居を感じる気持ちは私もそうでしたが、もう少し気軽に思えたらいいし、何かの時のためにこの選択肢のことを知っておいてむだにはならないはず。

前置きが長くなりました。
私の場合は病んでニッチモサッチモになってからのケースなのであまりその敷居を低くする効果は大きくないかもしれませんが、助けられた感謝を込めて書きました。
どなたかに、何らかの、参考になればと思っています。

*************************************

《きっかけ》
カウンセリングを受けたのは心の病気と言われるもの(診断書には抑うつ状態(つまりうつ病)と書かれていた)になり、通院し薬を飲んでいてもままならず苦しみともどかしさしか感じていなかった時のこと。
もちろんはじめから病気だとは思っておらず(ましてこれにそれまでの諸々の蓄積などもあったとは思いもよらず)、当時抱えていたヘビーだけど思い入れのある仕事の疲れだろう、少し休めば元に戻れるはずと思っていた。
だからかなり変調を自覚してからも何とかなると思っていたし、心友に話を聞いてもらったりちょっと休んでも何ともならずな状況が続き、受診しだして医師に「診断書を書くからしばらく休むように」と言われても「仕事しながら治療を」と言い張り、時々は休んでも仕事を続けていた。
(今から思えば症状由来を含めた頑迷な思い込みがあったかと思う)

通院し薬を飲んでも改善どころかむしろひどくなるばかり(後から思えば遅すぎたし薬の副作用(初期反応)などもあった)で、なおさらに仕事にも手がつかなくなり、何か他に手段はないかと悩んでいた時にカウンセリングというものがあるのを思い出した。
正直なところ、カウンセリングについて面談でどうこうなるものかと懐疑的でいたし、こんな状況でいながらも必要なのはマッチして症状を緩和してくれる薬だと思っていたのだが他に手だてが思いつかず、すがるような思いとの半々だった。

《最初の面談》
案内されたのは丸みのある木のテーブルや観葉植物などでアットホームな雰囲気を醸した部屋で、対応してくれたカウンセラーの方も医師とは違う柔らかな印象で話しやすい雰囲気を作ってくれていた。
それでも初めてのことだったし、ましてこんな状況での初対面。しかも後に顕著に感じることになった対人恐怖的な症状があってかずいぶん緊張していた。
まずは聞かれるままに現状や経緯などを話していったらまだ仕事を休んでいないことに驚かれた。
医師には言われていたし、自分でもどこかでそう思ってはいたが医師以外の専門的な見解は初めてだった。
「あ~やっぱり人から見てもそんな状況なのか…」

これまでの経緯や病状を遡って話したからか(説明下手なせいもあってずいぶん時間がかかったように思う)いくぶん疲れを感じた。
驚いたのは次の面談の都合を聞かれ同じカウンセラーの方が担当してくれるということ。
後から思えば当然のことだったが、同じ先生(自分にとってはこの呼び方がしっくりくる)が担当してくれるということに少しありがたみを感じた。
とはいえ次回の日時を決めての帰り道、初回で状況把握と導入と判っていて、そもそも1回の面談で何とかなる訳がないとは思いつつもこれに何か意味があるのかという感じがあったのを覚えている。
(たぶん当時は薬でも何でもとにかく効果や足がかりを求めていたせいだ)

《次からの面談》
その後数回面談するうちお互いにの人柄なども判ってきて、毎回導入的に前回からの状況などから始まるが初回のように経緯を説明する必要はない。
会社のように利害関係もなく、友人や家族とも異なる関係性。医師とも違う。
徐々に肩の力が抜けてきて自分を取り繕うとか考えずに話せるようになっていった。
それでもまだ効果を感じることはなかったが、専門的な見地があるのが伝わってきたし、病状を話し薬の処方を受けるだけと感じざるを得ない5分とか3分診療と言われもするような(いろんな事情あってのことだしそうとばかりではないこともある)医師と治療へのセカンドオピニオン的な意味もあるかもと感じた。
(実際、後に薬や治療への意見も聞いて参考にするようにもなっていった)

《それからの面談》
カウンセリングを受けだして2か月ほどした頃、休職することになった。
これはカウンセリングのことは別であくまでも自分自身がそういう状態だったからのことで、実際当時はもうどうしようもなくなっていた。
タイミング的に先生には相談できずにそうなってしまい、事後に伝えた(予想はしていたかもしれない)のだがそれも状況の1つと静かに受けとめて話を進めてくれた。

たぶん一番ありがたかったのは、自分と話を受け入れ認めてくれていて、その上で決めつけるのではなく対処してくれることだったと感じている。
医師の診察には、こちらの話を聞いてはいても予定調和的(わりと初めのうちから対処や薬の処方を決めているかのように)に感じていて、今思えば療養が必要だったこちらの状況もあったとは思うが当時は不信感を募らせてもいた。
数回するうちに医師とは違う対応や何らかのコメント、アドバイスなどに何かしらを感じるようになっていった。

うつはかさぶたのようなもの
中でも大きく感じているのは、「うつはあなたの表面に貼りついてしまったかさぶたのようなもの。(自分全体のものではないし、時間はかかるかもしれないが)少しずつ剥いでいけば元に戻れる」という言葉。
当時は療養につとめようとしても思うようにいかずで、症状もきつく希死念慮(もう少しいい言い方ないのかな)もまだまだ大きく感じていた時のこと。
今はこんなでも治ったら自分に戻れる。
この言葉も初めは入ってこず気休めにすら感じたところもあったが、それでも後から徐々に希望に感じられてきた。

《感じてきた変化》
面談を重ねていくうちに、相変わらず薬を含む療養・その他自分なりにあれこれしていてもままならず、いったいいつまで…と先の見えない思いの中でいても徐々に整理されていく感覚が得られてきたし、それらを受け入れてくれた上での客観的な言葉や気づかないでいたわずかな変化への指摘(顔色や言葉など)に少しずつ何かを感じるようになっていった。
それを自分では実感や自信を持てずにいても、この先生が言うのならと思えたし、ちょっとしたアドバイスを大切に感じるようになってきて、それを帰り道に電車の中でメモしたことは今も思い返すことがある。

《回復徴候》
休職してから半年ほど経った頃からか、相変わらずな症状や落ち込みの波の中で徐々にその大きさが小さくなってきているように感じ出してきた。
それは気持ちの焦りとは反比例しているかのように本当にかすかで徐々にのことだったが。
それを感じられたのにも先生のその時々のコメント、顔色や話す言葉への指摘があり、自分では自信を持てずにいたことへの後押しにもなっていった。

《仕事復帰》
それでもこれは本当に徐々にのことで、そこからもアップダウンや紆余曲折がありとてもスムーズにと言えるものではなかったがそれらも経て仕事に復帰することができた。

結果的に休職していたのは1年と数か月。
人から見たらそれをどう思うのかは判らない。
自分にとっては長い時間だったし、仕事していながらも硬直していたような時期を含めればなおさら長く感じているがもっとかかっている方もいる。
受けたダメージや蓄積した疲労、その結果としての病状。
対する治療などの効果が数値などでの評価が難しく、おおむね体感的なことによるしかないので客観的な期間で長短を言うことはできない。
誰彼からゆっくり休めなどと言われても、自分でも休んで楽にしようとしても、難しい。
それどころか何をしてもマイナスになってしまうことさえある。
この病気を特別視するつもりはないが、つくづく面倒で厄介なものだと思う。

《カウンセリングの終了》
仕事に復帰して数か月経った時に終えた。
自然にもうここからは助けなしにやっていけるだろう・いこうと思えたからで、それを話した時、先生もそろそろ頃合いと思ってくれていたように感じた。
お世話になっていたのは1年半ほど。
本当に心から感謝している。

これはカウンセリングの体験談ではあるが、回復できたのはそれだけでのことではなく療養と投薬、自分なりに取り組んだこと(時には無駄に思えたことさえも、かもしれない)のトータルでのことだったと感じている。
何よりダメージや疲労・傷を癒す時間が必要だったのかもしれない。
その中でもカウンセリングはこれらへの助言などを含めてとても大きな、本当に大きな一助だったと感じていて、今も先生の名刺を御守り的に手帳にはさんでいる。

《ひとまずの後日談》
仕事に復帰して数年が経つ。
病気という望まずのこととはいえそれなりに経験したし、治るため・再発を防ぐため(それ以外を含め)いろいろ学んできたなとも感じている。

この病気に完治というものはなく寛解(再発の可能性があること)ということもよく判った。
実際、今でも時々体調を崩す。
普段はいろいろあって時には気落ちすることがあってもスルーを含め対処ができていると思うし、全体的にはむしろ病気の前よりも幸せに感じてすらいるところもある。
ただこの体調不良は急に何の前触れもなくやってくる。
気持ちが落ち込むからなのか体調を崩すから落ち込むのか、セルフケアが足りていないのか定かではない。
当事者情報で季節や気圧の変化が影響しているケースも多いようだが自分の場合はそうではなさそうでいまだに対処しようがないまま、これだけやってきているのにまだ続くのかと気落ちすることもある。

再発の怖れを抱えながらも対応していくこと
そんな時に思い返すのが、かなり調子が上向いてきてはいてもまたダウンすることや再発への不安を口にした時の先生からの言葉。
「確かに再発は多いがこれまで経験し学んできたことで対処できることもある。不安もあると思うがゼロにはできなくとも対応してやってくことを目指して」という意味に受けとめている。
普段なんなく(時には何とかでも)過ごしていても落ちこむことはあるし、どうしても自動的にネガティブに思い返してしまうこともある中で支え・指標のようなものに感じている。

うつはかさぶたのようなもの。
全てが元どおりとはいかなくても今がある。
時には再燃や再発を思うようなこともあるが客観視している視点もあるし、セルフケアを含めまだ手だてがある。
振り返ってみるとそれがよく感じられるし、今でも支えになっている。

《カウンセリングとは》
まとめ的にカウンセリングの役割と効果について私が思うところを(おこがましくも(^^ゞ)。

☑即効性はない
状況などによってはすぐに効果を感じる人もいるかと思うが、やはり何回かの面談や奨められたワークをするなど時間を要することが多いと思うし、時には何の意味があるのかと感じることもあるかもしれない。
だがそれは課題の大きさだったり、これまで(時には何とかだったりしても)やってきた自分の経験と思いもあるからだったりするので、それが例え負のスキーマになっていたとしてもそれを責めたり是非を問うことではないし、カウンセラーは判ってくれている。
病気にまでなったら薬も即効性はないのだし、カウンセリングは治療のためだけのものではない。

☑話すこと・聞いてもらうこと
へっ?と感じるかもしれないがこれは本当に大きい。
もしかすると半分ほどはこれだと言えるかもしれないし、実はそれで一定の示唆や満足を得られるなら友人などでも構わないのかもしれない。
だがこれは何気に難しい(いわゆる傾聴の大切さなどが判っていたとしても)。
さらに注意を要するのが話すことで負の出来事を再体験することもあるということ。
伝えるために言語化する過程ではどうしてもその時のことを想起した感情も生じやすく、それを吐き出すことで発散や浄化となればいいがダメージを受け思考などがマイナス方向へ向いてしまう場合もある。
この注意は知人などでは余計な負担をかけたくないとお互いに敬遠しがちになったりもするのでなかなか難しい。

☑共感
カウンセラーはその難しさを判っているので安心できるし、その上で話を遮ったりすることなくしっかりと、かつ共感を持って聴いてくれる。
話して・聴いて・共感してもらうことはとても大きい。

☑第三者的な視点と知見
安心して話せ、共感を感じさせてくれつつ客観的な視点を保ち話してくれ、専門的な知見もあるので安心できるし、自分では判っていても難しい気持ちの切り替えなどに役立つコメントやアドバイスをもらうことでそれに向かう気持ちができる。
また、これはカウンセラーの専門・得意分野にもよるので最初に考える必要があるし、厳密な意味ではないが治療と薬などへのセカンドオピニオン的な見解を得ることもできる。

☑思考の整理
悩んでいる時・行き詰まっている時は気持ちと思考の整理がうまくいかないもの。気がつくとぐるぐる同じことを繰り返していることが多い。
後から思えばわりと単純なことだったりしても、こんな時はそれが難しくしていたりして、自分での対処(相談やジャーナリング、認知療法的な手法など)だけでは判ってはいても(病気などの時ではまして)改善させるのはなかなか難しい。
対話はそれを助けてくれる。

☑変化への気づき=促し
客観的視点や考え方(というより感じ方)を変えるのは頭では判っていても難しい。
悩んでいる時や病んでいる時はましてそうで、もともとの性格(これは変える必要ない)や固着したスキーマ的なものが後支えしていて良い方向への変化が気づきにくいし認めることが難しかったりする。
カウンセリングは、こうした自分では気づけない変化を指摘し促してくれる。

☑まとめ
こうしてみると、自力や他力とかひっくるめてよりよく生活していくための一助、かなり他力ではあるかもだけどコーピングの1つのようなものだと思えばいいのかもしれない。

cotree
ここで主にオンラインでのカウンセリングを提供しているcotreeさんという会社を紹介させていただきます(ご存知の方も多いかもしれません)。
別に営業的なことではなく(ここのカウンセリングを受けたこともありません)参考までに。
数年前こちらのインタビューを受けたことがあります。
仕事復帰して1年ほど経った時のことで、休んでいた後半からHPなどの記事を参考にしていたし、そこから伝わってくる雰囲気が暖かく(特にCEO櫻本さんのnoteは必見)
いつかお世話になることもあるかもとフォローしていたところ、カウンセリング体験のインタビューを募集があり、しかも度量の広いことに自社以外のものでも構わないというので応募しました。
インタビューは私にとっては整理や確認の機会にもなったと感じているのですが、話し下手で時間ばかりかかり、終えた後反省や心配していたのに、自分のことではないようないい記事にしていただきました。
その記事がこちら
(cotreeさんの了承をいただきリンクしています。末尾にある福利厚生への部署とメンタルヘルスへの取組みはまだできていないですが…)

対面では時間など物理的に難しいこともあるし(Covid-19禍の今はまして)、ただでさえ躊躇することもある中で少し気軽に受けることができる環境を設定してくれていて、かつしっかりしたビジョンとノウハウを持ったサービスは貴重だと思うし、様々な事例やアドバイスなども書いてくれているのでホームページを見るだけでも参考になると思います。
よかったら開いてみてください。

《おわりに》
拙い文章をお読みいただきありがとうございます。
私は特に何の取り柄もないただの一般人ですが、それを卑下するつもりはないし、ありがたいことに助けてくれる方々や仲間もいてくれたおかげでそれなりにやってこれたとの自負も少しはあります。
それでも生きていればあれこれハードル的なことはあるわけで、時には生きづらさを感じたことも多々ありました。
今になって病気のことを思えば、あの状況ではどうしようもないことが重なり、自分では何ともならないものごと、特に仕事関係では立場の違いとかボタンのかけ違いもありましたし、それに向かう自分の頑なな思い込みなどもあったかと感じています(とはいえもちろんいまだに後悔もありますが…)。
(この辺りの病気のことはこちら。
病気のこと《第1部》|nakagawa #note https://note.com/07600721/n/nb3a13622dc84
興味ある方はよかったらご覧ください)

カウンセリングについては必要がなければそれに越したことはないですが、時にそれに頼ることは何ら恥ずかしいことじゃない。
少なくともこうした選択肢があることだけでも知っておいていただけたらうれしいです。
自身のためにも、行き詰まっている知人から相談を受けた時などのためにも。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?