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『少年生活』Vol.2 手紙と科学館 後半

科学館の後は、海をみにいく

科学館を後にした私たちは海へ向かった。僕の地元が鎌倉ということもあり、海岸や砂浜はとても慣れ親しんだ場所である。しかし、東京、ましては再開発地のお台場の海岸となれば雰囲気は全く異なっており、新鮮な気持ちで見に行くことができた。

この場所に来て考えたのは、ゼミの子の観察力への気づきと、情景を保存する「ことば」の役割についてだ。

前者のことは以前から思っていたのだが、同伴したゼミの子の観察力は凄まじい。「〜あれみて!」や、「〜がこっちに来てる!」と次々へと状況の変化を伝えてくれる。なにか特段大きな出来事や、変化があったわけではないのだが、鳥の様子や、船の来航など細かいところにまで目を配っていた。そのひとつ一つを喜んで、面白がって、目を輝かせている。その姿を見て、なんてよく世界を見ているんだろうと横に座りながら思っていた。普通であれば見落としてしまう細々としたことも、彼女の目には”うごいて”見えているのだろう。ぼくもそうであれば、1日の中でどれだけ多くのことに気がつけるかと思った。見習いたいことのひとつである。

そしてこの観察力に「ことば」が乗っかることで、さらに力強さが生まれる。最近読んでいた本で、脳科学者の茂木健一郎と、歌人の黛まどかの対談と、エッセイをまとめた『言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ』というものがある。終始「ことば」の持つ魅力や、短歌を切り口にした日本文化への言及が行われる。その中でことばの「情景の保存機能」について語られていた。本来なら引用したいところなのだが、手元にないので僕の口から直接説明することとする。

僕たちは日々生きている中で、多様な場面に出会い、その度にいろいろな印象を抱く。それは、人との会話の中かもしれないし、ただ街中を散歩しているときかもしれない。何かを言われて悲しくなった。道路で見つけた花に嬉しさが湧き上がった。このようなことが日々起こると思うのだ。兎にも角にも、私たちは常に何かの場面に出会い、「感じる」ということを行なっているということだ。そして、僕たちはこの「感じる」ことを言葉によって、世界に持ってくる。その感情がどういうものなのか。なぜその感情は湧き上がったのか。そして、その感情はどの対象によって引き起こされたのか。私たちは視たものを、ことばによって記述するのである。そして、この記述することを通して、一時的な感情や感性、そして一瞬のうちに現れた情景を記憶・記録するのである。それがここまで述べた「ことば」の役割である。

ぼくは今日この「ことば」のちからを多くの場面で感じていた。石の上に落ちた枝、見せてもらった詩の内容、周囲を駆け回る子どもたち、これらの映像すべてに「ことば」を当てて、認識し、味わい、語り合ったのだ。最初の気づくということ、そしてことばを使うということ、その2点にとても自覚的になった1日であった。

その後、手紙をわたす。

そして、この2つの視点の合算とも言えるのが、手紙を綴るという行為であると私は思っている。今日僕は、ゼミの子に一通の手紙を渡した。2週間ほど、出会った時の記憶や出来事を反芻させ、どんなことを感じたのか、その時々に起こっていたことは何か、そんなことを思い起こしていた。その過程において、自分の内面では一つの物語は編み込まれているような感覚があった。微々な会話の変遷を思い出し、自分との関係性の深まりを書き残した。なるべく多くの出来事に結び常ながら、また自分が考えている問いも書きながら。その後、手紙がどう読まれたのかはわからない。でも、生きてきた場面には、物語を生成する素材が溢れており、それを素直に書き起こす、そして伝えたい人に伝えていきたいと思った。そうすることで、自分が生きた轍をふりかえるきっかけになると思ったからだ。直前に読んでいた、小川洋子さんの『物語の役割』の影響だろうか。そうであるならば、この本に書かれていた内容は、人間の本質を描いたものであろう。

参考文献
・茂木健一郎、黛まどか『言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ』.2010
・小川洋子『物語の役割』.2007


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