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父が他界③~彼はどんな生き方を望んでいたのか

 父が亡くなって2週間。未だ後処理で奔走してます。
 遺品となった衣類等は廃棄してますが、書類を含め、写真や日記等は当分残したままで触らないよう家族には伝えてあります。
 母も高齢なので、動けるのは私のみで、兄弟はあてにしてません。

 15年ほど前、私は無職だった時期があります。
 その時に自身の二度目の終活を早々に始めました。
 終活なんてものではなく、単なる断捨離なのですが、卒業アルバムなど他の方にとっては思い出となる品なのでしょうが、そういったものも含め、子供の頃に買ってもらったおもちゃやら学生時代の物も廃棄をし、その時に必要なものだけを残すようにしたのでした。

 その時にたまたま父が書き留めていた、私が生まれた頃からの手帳日記を見つけたのでした。
 当時から病気を抱えてしまっていた事もあり、出世は遅れに遅れていましたが、いわゆるエリートコースではなかったので、最終的には相応のポジションで定年を迎える事はできたようです。
 戦前戦中生まれの世代だからなのか、職業柄なのか、毎日のように手帳に日記を書いていたようで、中には「なぜ上司に認められないか」の苦悩も所々に書かれてました。

 「親と同じ道を歩んでしまっているのだなあ」と。
 この時、私は30代中盤。
 疲弊続きで何社も転職してしまってました。

 私自身、大病を患う事はありませんでしたが、過労死寸前の時もしばしばあり、生活の場所も不安定、残業代も満足に出してもらえない続きで、人生に疲れてました。
 結婚なんて二の次三の次です。
 自身が立って生計建てるのが難しい状態どころか、いつ倒れるかの状態でもあったからです。
 まずは自分と言うのが常に先行でしたが、IT職は独身にはかなり辛い仕事を与えるのが常だと、どこに行っても感じてましたが、無理して家庭を持っても自爆すると考えていたので、敢えて妻帯する事は避けてました。
 当然、今でも家庭と言うのは持ってません。
 家族は、親達実家の場所になってます。

 彼自身、病気を伴っていましたが、通勤1時間半毎日通っており、50代は打って変わって毎晩深夜帰りでした。
 普通は落ち着く世代なのでしょうけど、責任があるポジションに就いたからなのだろうと感じており、退職前に潰れるのでは?とも思ってました。
 昔は半ドンといって、土曜日も午前中出勤でしたが、この頃には完全週休二日制となっており、土日に出勤する事はなかったようです。


 「仕事ってなんなのですかね?」。
 これは愚問のようです。
 一番いいのは、自身の生活スタンスに影響がない範囲で、生活費を稼げることだと思います。
 彼は無理をしていたのだろうか?と。

 薬が手放せない社会人人生でした。
 50代は午前様帰宅が数年続いてました。
 家族の為と言う言葉も、1・2回出してましたが、「そこまでやるものか?」と、当時、まだ学生だった私は考えてました。

 ほとんどの親が家族の為に仕事をして、生活費を稼いでいるのでしょう。
 余剰があれば、余暇や趣味の為にお金を使う。
 父も少しは自分の為に使ってはいたようです。
 大学にも私や兄弟通わせてもらいました(幸いに学費は安かった)。

 でもね。。。
 私もサラリーマンになってから、仕事のスタイルが違うためか、「そこまでする事か?」と。
 そして、自身の生活が正社員なのに不安定要素だらけだからこそ、自分の家庭を持っても守れないと感じ、一生独身でいいやと。

 仕事に就いて。
 仕事仲間と飲んで。
 家庭を持って。
 子供を養って。
 家を買って。
 時たま、自身のちょっとした趣味にお金を使って。
 そして退職して、老後を歩む。

 生き方の多くはそんなものかと。
 今の世代と昔の世代では、社会情勢が異なっても来てます。
 正社員なのに、それが出来ない人もいます。

 世代が違うと「分かり合えません」。
 父の世代からすると、私は遅い子になります。
 その為、話しが学生の頃からかみ合わず、常に反目してもいました。
 それは、父が退職してからも変わらず、母ともども同じでした。

 昔は、多くの人が、ほぼ同じ生き方ができる時代だったのかもしれません。
 バブル前から、どこかおかしくなり、はじけてからは、格差が広がり始めた気がしてます。もう30年経ってますよね。
 父の仕事は、ほとんど景気に左右されなかった事もあってか、その感覚のずれが相当にあった気がします。
 就職を決める頃、その事で喧嘩になった事もあります。

 入社してすぐ、胃腸がすぐれなくなり、体重も1か月で10Kg以上減り、数か月出社したり欠勤したりでした。
 当時の会社では、休職と言う言葉は一切ありませんでした。
 「続けるか辞めるか、決めてくれ」と。
 まだ、本調子ではありませんでしたが、「続けます」と。
 半年程は、定時退社できる仕事をあてがわれ、その後はそれまで通り深夜帰宅の毎日。そして会社近くの寮に強制で入寮命令が出て、嫌々入りましたが、それまでと変わって、今でも付き合いのある同期との交流が一気に増えました。
 仕事も毎晩遅く、時には徹夜もありましたが、寝る間も惜しんで遊びも数年しました。
 あの時は、まだ今のような転職事情でなかった為、退職と言う言葉が本当に怖かったです。
 見つける術がなかったからです。
 ですので、やむを得ず続ける選択肢しか選べませんでしたが、雨降って地固まるではないですが、つづける事で良い方向となりました。

 しかし、その後、何度か父の仕事を考えるようになる事がありました。
 「そっちの方が、安定して稼げて、無理のない仕事ではないか」と。
 隣の芝生は青く見えるという事でしょうね。
 父の仕事の詳細はいまだにわかりません。
 実は母もわかってません。

 ただ、家族を養うだけの給料を貰ってきて、病気持ちではあったけど、その後入院する事もなく、家も買うことが出来、私とは全く正反対の人生を送れてました。
 だからなのか、自分と比較してしまうのです。一番身近な対象として。

 彼の若い頃は、数枚の写真で伺う事ができます。
 ごく普通の学生生活を送っていたようです。
 ですが、サラリーマンになってからの写真は出てきません。
 定年間近とその後の写真ばかり出てきます。
 夫婦生活は不和でした。
 ですので家族旅行らしいことは、小学校低学年くらいの数回のみ。
 あまり母が一緒に行動したくなかったようでもありましたし、私自身が当時から感じ取っていたので、旅行となると乗る気になれず、祖母が付き添いでの旅行と言うのも一度あったのでした。

 家庭がうまくいってない家は、それなりにあるのでしょう。
 でも、各家庭で子供の感情に大きな影響を与えてしまうものでもあります。
 なんだかんだで、そういった事はお構いなしの性格だったのかもしれません。後年、自分で好きな生き方をしてもいたようです。

 彼は何をしたかったのか?。
 母曰く、「何も特別したかったことなかったんじゃないの」と。


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