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指導

 二ヶ月ほど前にオンラインで日本語教師を始めた。友達の韓国人がオンラインで韓国語教師をやっており、それに触発されたのである。時節柄、家に居ながら働くことへの興味は前々からあった。その友達が利用していたのは、資格を持っていない一般人でも第一言語であれば教師として指導できるプラットフォームだった。僕は簡単なプロフィールと自己紹介動画を作成して求人に応募した。現在はオーストラリア在住で英語での指導が可能だということをアピールした結果、簡単なテストとズームでのグループレクリエーションを経て、無事に教師になることができた。

 これまでの人生において、僕は何かを「教える」という行為に尋常ではない苦手意識を持ってきた。自分には全く適性のない、この世で最も避けるべき行為だと思っていた。必要に迫られて他人に何かを説明したり、間違いを正したりしなければならない場合には、「俺なんかに教わりたくねえだろうな」という申し訳なさが常につきまとった。相手はこんな説明なんて大前提としてとっくに理解しているかもしれないし、何かしらの意図があって本来は間違いとされるやり方をあえて実行しているのかもしれない。そんな風に深読みしてしまうあまり、相手から求められない限りは干渉しないのが常だった。
 逆に何かを教えてもらう立場である場合、自分と同じようなスタンスの指導者だとやり易い。ある程度の自由を与えられ、長期的に見てもらった方がリラックスできる。ミスする度に即座に注意されようものなら、僕は茹でた後のホウレン草くらい萎縮してしまう。咄嗟に言い訳が出てしまったり、時にはその場凌ぎの嘘だってついてしまう。僕には何かを納得するのに人よりも時間が掛かる傾向がある。教師や親からの教えに対し、その内容がどれだけ正しかろうが、素直にその場で受容することは難しかった。相手の態度に傲慢さや苛立ちなどのネガティブな感情が少しでも含まれていると、僕はそれを嗅ぎとって「ここで言う通りにしてしまえばその態度すら肯定することになりかねない」と本能的に身構えた。正しさを振りかざされることへの強い抵抗があり、自分は他人に対して絶対にそのような態度を取るまいと努めてきた。結果、「教える」という行為そのものから可能な限り遠ざかるようになった。

 日本語を指導するに辺り、僕は生徒達の言葉に全神経を集中させた。彼らのレベルは様々だった。細かい助詞の間違いが見受けられる程度の上級者とは日本語だけでレッスンが成立したが、いくつかの単語は知っているものの文章は作れない初心者とはほとんどずっと英語で喋った。ビデオチャットを通して見える表情や仕草も含め、僕は情報を何一つ取りこぼさないように懸命になった。自分が喋る時には明瞭な発音で分かり易い言葉を選び、曖昧な表現を避けて一文を短く完結させた。それに対する相手の反応を伺い、理解度を推し測りながら喋り方を変えたりした。
 ある程度のレッスンをこなした時点で、僕はふと思い当たった。これは普段からやっていることだと。僕は日常生活において誰と喋る時にも、まるで教師として日本語学習者と喋るように会話に集中していた。今はオーストラリアに住んでいるので環境がやや特殊だけれど、日本に住んでいる時に日本人と喋る時にもこのスタンスは基本的に変わらない。相容れないタイプの人間と興味のないテーマについて話す際にも、僕は一度話し始めれば全力を尽くす。基本的には全く喋らないか全神経を集中させて喋るかの二択で、挨拶がてらの軽い世間話や適当に会話をやり過ごすのがあまり得意ではないのだ。おそらくそれゆえに交友関係は狭く深い。

 とまあそんな具合に、僕は知らず知らずのうちに「教える」という立場に要求されるであろう態度を既にある程度身につけていたらしかった。それを悟った時、僕は深夜バスが目的地に到着した早朝みたいな気分になった。どうして自らにそんな苦行を強いたのかはともかく、これから始まる異郷の地での真っさらな一日に胸が踊った。
 たしかプロのスポーツ選手だったと思うのだけれど、なぜその競技を選んだかとインタビュアーに訊かれた際に「一番苦手だったから」と答えたらしい。あまり詳細は覚えていないが「気取りやがって」と感じたのをよく覚えている。だが、今はその気持ちが少し分かる。

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