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事件を目の当たりにして、まずスマホを構える現代人がちょっと怖い

携帯電話が爆発的に普及して久しい現代にあって、写真を撮るという行為は極めて日常的で簡単な行為になった。
思えば小さな頃、写真を撮るためには使い捨てのカメラを買って、数十枚という限られたフィルムを使い切らぬよう、子供なりに悩みながらシャッターを切っていたものである。

私はそれほど写真を多く撮るタイプではなく、3年ほど使っている携帯電話の写真フォルダにはいまだに100枚ほどの写真しかない。多分それは、幼年期の「そもそも、これは写真に残すべきなのか」という逡巡がいまだに残っているからなのだろう。ほぼ無制限に写真を撮れるいまにあってはあまり理解されない感性かもしれない。

写真を撮るのは、言うまでもなく美しい風景や劇的である瞬間を収めるためなのだが、中には美しかったり劇的であったりしても「これは撮るべきではない」と、なんとなくはばかられるときもある。
わかりやすいのは葬式だろう。常識的に考えて、葬式で写真をバシャバシャとっている人間はまずいない。
ほかにも宗教的な施設もあまりカメラを向けるものではないと思う。外国なんかにいくと宗教的な施設はごまんとあるが、そこに入って美しいステンドグラスなどにレンズを向けたとき、ふと視界の片隅に祈祷をささげている敬虔な信者が見えると、シャッターを切らずにカメラをしまう自分がいる。

こうした感性に基づくと、いついかなるときも写真を収めなくてはならないカメラマンというのはネジが飛んでないとできない仕事だと思う。
撮るか撮らないかということを考えるような逡巡がそこに入り込む余地はなく、いついかなるときもカメラを構えていないといけない。私はもたもたとして、記者なのに写真を取り忘れるという失態もありながら適当にごまかしつつ今に至るわけだが、カメラマンはそうはいかない。

最近の事件映像を見ていると、私のような感性を持っている人はわりあい少数派なのであって、むしろ世の中のカメラマンのように振る舞う人のほうが多いのではないか、と思わされることが多い。
たとえば、岸田文雄首相の演説先で爆発物が投げ込まれた事件があったが、あの映像を見ていると周りの人たちは少なからずスマートフォンを構えて犯人と取り押さえる男性の様子などを撮影している。「いや、逃げるか止めるかしないのか」と私は思った。

ほかにも、SNS上で物騒な事件の様子が投稿されていることがある。まずSNS上に上がっている時点で撮った誰かがいるということであるし、その映像を見ていると同じように撮影している人が何人も映っている。
人が目の前で死にかけていたり血を流していたりするなかで、金をもらってカメラマンとして映像を残さなくてはならないという職務上の義務もないのにも関わらず、助けるわけでもなくただスマートフォンを構えているひとが少なからずいる。

下世話な記者よろしくカメラを構えて衝撃的な一枚を収めようとする様子に、幾ばくかの怖さを感じるのは私だけなのだろうか。マスコミであれば「カメラなんか向けるな」と批判されることはしばしばだが、民衆であればそれは自然で許されることなのか。
「これは撮るべきではない」と思う感性が死にゆくいまにあって、己の倫理・道徳観が強烈な欲求を慎ませるような瞬間は、なかなか訪れにくくなっている。

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