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ジェットタオル好きとしてもの申したいことがある

私はジェットタオルが好きである。
自宅にあるようなものではないため、外出したときにしか出会えない特別なアイテムの一つだ。
洗ったばかりのびしょびしょの手を突っ込むと水がしたたり落ちる様子は、いつ見ても壮観である。

私とジェットタオルとの出会いは物心ついた頃にまで遡る。幼少期に病気でお世話になっていた病院のトイレに、ジェットタオルが置かれていたのである。
当時自分自身が何歳であるかを認識しておらずいくつの頃だったのかははっきりとしないのだが、病気で通院していたのがだいたい3~5歳ごろであるので、小学校に行く前であることは間違いないと思う。

病院のトイレはまずもってやけにきれいだというのもあるのだが、トイレの手洗い場でせっけんや水が自動で出るというのが私にとっては大きな驚きであった。
加えて当時の手を乾かすものといえば、あるとしてもいわゆる「キャビネットタオル」という巻き取り式のタオルのようなものが一般的だった。
ジェットタオルという強力な風圧で水を吹っ飛ばすというパワープレイ以外の何物でもない機械を体感し、それきり私はジェットタオルのとりこなのである。

しかし、このジェットタオルが使えなくなる事態が起きた。新型コロナウイルス感染症の蔓延である。
当時、飛沫感染があるとかないとか言われていたなかで、様々な場所でジェットタオルが使えなくなっていってしまったのだ。

思うにこれは、コロナ禍での人間の思考停止が起こした悲劇である。
そもそもジェットタオルに突っ込む手というのは、用を足したあとにきれいに洗った後の手である。
きれいな手を乾かしているならジェットタオルが(水垢とかはつくけど)感染のもとになろうはずもない。
仮に糞便から感染するというのあれば、世の中のトイレは窓を全開にするべきであったわけで、それができなければ閉鎖することが必要なはずである。
もちろん実際にそんなバカなことをする人はいないのでトイレは使えるのになぜかジェットタオルが使えないという意味不明な事態が起きたのである。

最近になってコロナ禍であれこれと日常生活が規制されることも少なくなった。かつては外に出るな、酒を飲むな、人と会うな、マスクをしろなどと命令されたわけだが、すっかりそれもなくなった。
こうしたなかでジェットタオルが使えるようになったところが、少しずつ増えている。いまでもなお使えない施設はちらほらあるが、ジェットタオルloverとしてはジェットタオルが使えるようになっている日本は少しずつ良い方向に向かっていると思う。

ならいいじゃん、というわけにはいかない。根本的な問題は、ジェットタオルを使えないようにした意思決定が極めて説明力に欠けていることである。要は「なんとなく」と意思決定をして、社会生活に影響を及ぼしたのである。

意思決定をするのはリーダーである。今回のジェットタオルの一件は、「思考停止した説明力のないリーダー」がいかに迷惑な存在かということを如実に示しているのではあるまいか。ジェットタオルに愛着のない人であればどうでもいいのだろうが、わたしはそうではない。
自由な社会にあってはこの世界に誰かから愛着を得ていないものは存在していないはずだ(愛着、もっといえば人気がなければそのうち淘汰されていくからだ)。逆に言えばこの世界には誰かの愛着に満ちたものが所狭しと並んでいる。
そういうものが様々に組み合わされて社会が成り立っている。

社会に影響を及ぼす立場にあるのなら、それをちゃんと理解できる頭と、それを説明する筆力やコミュニケーション能力がなければ、自身の取り組みへの理解を得られない。なんとなく、といった思いつきで社会に影響を及ぼされてはたまらない。
さすればリーダーにとって重要なのは、自己を理解し自己の取り組みをしかと見つめられる客観性である。ジェットタオルのようなパワープレイだけでは社会統治は上手くいかない。

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