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「転職するほどの気力もない」とこぼす20代

ある時、激烈な仕事に追われる20代の社会人女性と話す機会があった。
創業社長のように死ぬほど働いて成功したるぞという気概を持って爆裂に働いているのであれば何も問題はないのだが、聞くところでは彼女はいたく疲れた様子で「この間も退職者が出て…」とすっかり落ち込んだようである。

仕事が大変でも続けるのかどうかは個々人のキャリアビジョンや人生観に依るところも大きいので、辛いからやめたらいいよと無責任に言うわけにもいかないのだが、彼女の顔色からも意思を持って仕事をしている様子もなかったので「転職とかしないの?」と話題を振ったところ、こんな回答が返ってきた。

「いや、私は転職するために頑張る気力がもうないんです」

そうかとそれきり転職の話は切り上げたものの、あとあとなるほどなと考え込んでしまう一言であった。
若くして仕事に忙殺されてやりたいと思うことをやる(またはやりたいことを探し出す)だけのエネルギーを失ってしまっていること、そして会社がこんなふうに人を働かせて人材を定着させているという事実には、個人的にはひっかかる。

前者のエネルギー不足は、働きすぎているから起きているものではない。なぜなら創業社長は死ぬほど働いているがやけに活力があるからである。意思の付随しない行為を強いられ続けているから、だんだんとエネルギーが枯渇し、そして感性が乾いていくのである。今やっていることをやりたいことだと思い込むか、派手に休んで己と向き合ってやりたいことを探すほかあるまい。

後者の問題は企業がわざとやっているものではないと思うが、実態として存在していると考えると実に哀しいものである。本来企業にとってはやる気のある人材がたくさんいてくれる方が望ましいはずなのに、人材が定着しなくなっていくと仕事がどんどんと増え、そしてさらに人が定着しなくなる。結局残るのは仕事をたくさんこなせる優秀なマシーンであり、そこに人生をより良くする意思などが存在しなくなる。果たしてこれは誰が幸せになるのだろうか。

仕事をする時間は人生においてそれなりに長い。それだけに「新卒でこの会社に入ったから」という理由だけで一つの仕事を続けることに、別に合理性があるわけでもない。
やりたいことが変わる瞬間も来るだろうし、その時に職を変えても良い。22歳で入っておよそ40年、志や思想が一切変わらず勤め上げる人などほぼいない(というかそういう人こそ創業などをするのだろうと思う)。
自らの幸せを追うという生物として当たり前の意思すら去勢されてしまった活力の不足とは、成熟した社会が作り上げた実に暗い影である。

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