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2020.03.17.tue

「脱活字化の世界-情報産業の未来像をさぐる」弥吉光長著 昭和45年8月出版

「問いはあっても答えは得られない。」

「現在の芽が気がついたら全面をおおっていることや、苦心を重ねたミサイルが突然発射されるようなものである。」

「大衆のみている世界は演出された世界である」

「シェークスピアの『人生劇場』という考えは現代の世界にあてはまり、未来の世界にはいよいよあてはまるだろう。明日第二幕が開くとき、大衆は驚かされる。しかし、演出家は明日のために舞台裏で準備を整えたものである。」

「しかしもう今から始まっている。」

「大衆の待つ幕間の長いのは、知らぬうちに巨大な舞台が客席も劇場全体も包んで展開されつつあるからである。」

「人間の生き方というものは他人の舞台を勤めるだけで終わるものとは思えない。」

「その創造力ーそれは独自のアイディアでもあり、それらをシステム化することでもあるーを用いて、人間らしい境地を作りあげることにあるだろう。機械文明は人間の内容を作るものではないからである。」

「だいたい、ものはある一つの高さに達するまでは、現れてこない。けれども存在しているのである。そのものが一つの高さに達すると、ハプニングする。それが現在となったとき、そのものは、見ることができなくなる。それは環境となるからである。現在の環境はいつも見えないものである。すべてが環境になるのだから、人間の注意の全領域をカバーしてしまうからである。」

「マクルーハンの答えは、『ノー、芸術家に聞け!』である。」

「予言は未来をみつめる術を持っている人がなしうるのであって、芸術の特殊な機能である。」

「真の未来の予言は芸術的直観によらざるをえない。」

「何となれば、『そこでは、予期しえず、かつ明らかにたいした意味のないようなものによって、現在、まちがいなく進んでいるかに見える趨勢が、脱線させられてしまうのである』といって、これが断絶の原因であると示した。」

「明日を示唆する“きざし”は、たしかに社会的な出来事よりは、芸術の中に現れるであろう。そしていかに報告者の感覚がすぐれていても、またいかにすでに起こったことを鋭く分析するとしても、その報告者が明日の大事件を破局か慶事か、あるいは明日の大人物を英雄か悪党か予想する人よりも有能であるとはいえない。」

「そこでさきの芸術家の創作は過去になってわかることであり、大事件や大人物は出現したうえで予想が立てられるにすぎない。」

「アメリカの傾向は予言型で、現在を基礎にして可能な未来を予測するもので、ハーマン・カーンをはじめ主流をなすものであり、外挿法といわれている。」

「マクルーハンは芸術だけが未来を創造してゆく力をもっていると主張した。未来において芸術は人間の創造力を高め、生活をエンジョイしていくうえには、最高の地位をもつことになるという。」

「全体的把握というのは、原始時代への復帰であると説明する。原始民族では狩猟民族がもっとも人間性にすぐれている。彼らは農耕民族のように土地を区切って私有せず、全体として使った。彼らは土地全体のうえで遊んでいた。電子時代にはその理想が再現されようとしている。あるものの全面的把握こそ、現代の特色である。」

「だから、ドラッカーは、現在から計画しうる計量的な変化ではなくて、質的なもの、構造的なもの、理解のしかた、意義・価値・機会・優先度といったようなものを直視しようとしている。彼が念願をしているものは、もし人類がばかげた大戦争で人類を亡ぼすようなことをしないならば、「明日をつくるために今日といかにとり組まなければならないか」という問いの探究である。」

「文学は一個人が彼自身から作りだした器具である。マス・メディアはその乱暴な言葉の使用をやめて、標準的な用法に帰らなければ、言葉はその価値をうしなってしまう。現在ではマスコミ時代といいながら、真のコミュニケーションは消滅してしまった。そのうえ、芸術家はそのコミュニケーションが個性的であり、マスコミは非個性的である。芸術家はマスコミに従属させられ、マスコミを通じなければ発表ができなくなってきた。その結果、マスコミは本来のコミュニケーションの効果をなくした。視聴者も不注意になって、彼等に直接向けられている情報にも注意を払わなくなっている。芸術家の真の仕事にまで冷たい非人間的な顔を向けている。」

「人間はコンピュータが代行できない独自の分野を開拓すべきことを主張している。それは、システム化と芸術的創造とである。」

「サイバネティックス学者パスク(pask)はこの意見を徹底させて、人間はコンピュータのできない組織と創造から出発する。人間は機械との協力によって新しい機械を、新しい機械を、と開発していく。この技術社会的発展から要請されるのはマン=マシン対話であり、そのため人間の言語の方を変えようという主張である。きわめて合理的な見解のようであるが、最も危険な傾向である。」

「主体であり、独創的立場にある人間が、単に機械開発のために犠牲になって、自らの言語を放棄する必要があるであろうか。もしその必要があれば、その機械を破壊して、進歩を止めるか、別な方法で機械を開発すべきである。」




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