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シラノ・ド・ベルジュラック (それぞれに思うこと)

 観劇直後に感想を書いたシラノ・ド・ベルジュラック。

2月25日からの大阪公演も観劇予定でしたが、公演中止になりました。大阪公演観劇に向けて思ったことや疑問に思ったことをふせったーに書いていたのをここにも記しておこうと思います。長いです。そこそこ長い(笑)少し整理できたらいいな。

1.ド・ギーシュについて。 わたしの疑問。

 〝シラノを敵対視する横暴な伯爵〟とHPには紹介されているド・ギーシュ。確かにロクサーヌに恋し、囲おうとし、そのためには手段を選ばない。剣術に長け、口も立つ、人望も厚いシラノが目障り。シラノの恋心には気づいてなさそうだから、恋敵とは見てなさそう、でも自分には従わないし、気に食わない…そういう意味でシラノを敵対視するド・ギーシュ。 
高圧的だけど、茶目っ気も時折あり、ただの性奴隷にしたかったかと思いきや、思っている以上にロクサーヌにベタ惚れし、その想いをラップに乗せちゃう(お稽古はじめ、ド・ギーシュのラップはなかったと聞いています)。→そうすることでクリスチャンが言葉の世界からかけ離れていたこと(気持ちを言葉にして伝えることができないこと)が強調されていたと思うのですが、それは今回は置いておきます。 
結局愛しのロクサーヌが勝手にクリスチャンと婚姻関係を結び、怒ったド・ギーシュはクリスチャンが所属するシラノの部隊を戦場の最前線に送り込むことを命令したところで一幕を終えます。そして二幕。死と隣り合わせ(シラノ以外が感じる口の渇き)のシラノの部隊。そこに劣勢であること、そして作戦としてシラノの部隊が人の盾になる(=死ね)ことを伝えにくるド・ギーシュ。そこまでは非情だなと思ったのですが、 
バシネット(ヘルメット)?にある羽を捨てた→ん? 
わたしもこの部隊とともに→んん? 
…なんか、いい人になってない??心改めるようなことが幕間であったのかな。横暴で威圧的はあるけど、非情な人ではないのか。ド・ギーシュ。 
ラストのシーンのロクサーヌに金銭的援助をするのと、シラノの療養費を払いたいと申し出るについては、あの戦場とクリスチャンの死の責任を感じてという風に解釈できるけど、戦場での心変わりはちょっとよく分からない。最後まで悪者、非情な人であってもよかったのにな、と思います。

2.ロクサーヌについて。

 ほとんどに共感できなかった、軽薄な人に見えたと書いたロクサーヌ。観劇した人の感想を読むと、賛否両論で一番意見があったように思います。飜訳・演出の方はロクサーヌについて一連のツリーでツイートしています。

 そして世界中でいろんな形で表現されているシラノにはもちろんそれぞれが描くロクサーヌ像があり、それゆえに観ている人それぞれにもロクサーヌのイメージがあります。それはシラノにもクリスチャンにも言えることなのですが。 
で、今回のロクサーヌ。 
共感できないんですよね(笑)なぜそこまで囃し立てられ、持ち上げられるのかわからない。詩や芸術を愛し、愛されている…ようには感じない?シラノやクリスチャン、ド・ギーシュがそこまで惚れ込む理由も正直わからない。同性に嫌われるタイプだとは思います(笑)。ロクサーヌの魅力が全くもって伝わらなかったんですよね。 
時代は17世紀、ルイ14世の絶対王政全盛期。調べてみるとその時代の女性の地位について、「17 世紀は危機の時代ともよばれ、魔女裁判が多発した。女性の本質を悪(魔女)とする伝統的な考え方が、 魔女裁判を拡大させた。」「国家の起源は、自然状態における自由・平等な個人が自発的にとり結ぶ契約(社会契約)に求められた。しかし、自然法上の契約主体は男性とされ、男性が理性にすぐれ、国家の担い手であるという価値観が強化されていった。」(歴史教科書をどう書き換えるか?ージェンダーの視点から https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/21/5/21_5_10/_pdf)と男性優位というか、社会の担い手は男性であった時代であったっぽい(世界史を全く履修していないので、このあたりの時代は本当によくわからないし、これも合っているかは自信ない)。だから劇中の史上初の女性の大学生という設定は、聡明な人であることは確か。ただ詩に愛されし女かどうかはこれだけでは分かりませんでした。愛していたのかもしれないけど、愛されていたかはわからない。詩に愛されしの“詩”はシラノの詩じゃない?そこに気高い(上品で高貴な感じがある。品格が高い。)が加われば、ロクサーヌのことを理解できたのかな。品が必要だったのか?いや、品はあるな。でも決定的な何かが足りない。シラノが恋焦がれる理由。みんなの高嶺の花的な何か。みんなが憧れる何か。そして「美しさと知性は比例する!」と思う根拠。文学や詩、言葉を愛する姿や姿勢。そういうところが感じられれば、ロクサーヌのことを理解できたような気がします。17世紀の女性像を現代に当てはめようとしたのが、ロクサーヌ像をわかりにくくしたのかもしれません。少なくとも私からすると彼女の服装は文学や詩というよりは絵画、文学部というよりは芸術大学在籍のイメージです。 
天真爛漫なんですけどね。思い込んだら一直線というか、恋に恋する感じとか、クリスチャンを手のひらで転がす感じ(バルコニーのシーンね)とか、クリスチャンに会いたくて戦場の最前線に行っちゃう行動力とか。とてもかわいいし魅力的なんですけどね。その恋に恋している感じがクリスチャンやシラノがしていることの残酷さ強調させるし、のちにそれを知ったときの衝撃や哀しみ、クリスチャンの死によってある意味自傷行為にはしる(娼婦になる)苦しさをより際立たせているように思います。娼婦というかセックスワーカーになることも原作と違い賛否あったけど、クリスチャンの死によって自暴自棄になること、クリスチャン以外の人に抱かれることは自分自身を傷つけることを意味し、それによってクリスチャンの死を自覚すること(「クリスチャンとヤってない!」ってセリフは永遠に満たされない寂しさもあると思う)、クリスチャンじゃない人に抱かれることでクリスチャンと同じ傷を負う(そのたびに自分も死んでいると同義)ことだと思うから、今回のロクサーヌであれば原作通りではなく、こちらの道(自分自身を何度も傷つける)を選ぶと思います。 
それから最後の手紙を燃やすについては、封筒も中身もクリスチャンだと思っていたものが実は封筒だけだったことに衝撃を受けたのもあるだろうし、それを受け入れたくない(中身もクリスチャンだと思いたい)気持ちもあるだろうし、じゃあ自分は誰を愛していたのかという疑問や実在しない理想の人を勝手に作り上げ悦に浸っていたことの恥ずかしさ(情けなさもあるかな)も全部ひっくるめて、無くしてしまいたい、消えてしまいたいという突発的な行動だったように思います。封筒も手紙も彼女からするとシラノは存在してないんだよね。手紙の言葉を覚えているけど、あの一瞬で忘れるし思い出さないし思い出したくないものに変わり、ロクサーヌにとって偽物になり意味を持たない言葉の羅列になっていったように感じています。だってそれはクリスチャンじゃないから。 
シラノの死後、彼女はクリスチャンとシラノがしたことをどう受け止め、どう生きたんだろうな。 
今回の結末が残されたロクサーヌにとって一番哀しくて苦しいものだったかもしれません。

3.シラノについて。 

 この作品の時間軸シラノです。そりゃタイトルが「シラノ・ド・ベルジュラック」なのでそれはそうなのだけど、この作品はシラノの時間で、シラノの視点で進行していきます。私がそのことに気がついたのは二幕のラストシーンに転換した瞬間でした。開場時は2022。幕間はCYRANO DE BERGERACと1619ー1655。そして2幕最終章で暗転から照明が点いた時に浮かび上がった“1655”。幕間で1655年没って短命だったんだなとなんとなく思ったことが、一気に結びついて、この物語はシラノの一生だったんだと、そこで気がつきました。 
それならすごく理解ができるんですよね。シラノがロクサーヌに恋をして、その想いを伝えたいがためにクリスチャンにもたらされた機会を自分が書くと申し出て自分の機会にする。これだけでも十分自分勝手だなと思います。文才のないクリスチャンが一生懸命考えた言葉をシラノのセンスや才能で変換して伝えた訳ではなく、自身の想いや溢れる感情のまま言葉にしてクリスチャンとして伝えたというシラノの行為は決して代筆ではないと思っています。そしてそれを読んだロクサーヌの反応を自分に向けられたものだと解釈して気持ちが高揚する。それはもう自慰行為ですよね。
 私は映画シラノの予告( https://youtu.be/R5LO1ZAnjJA )で見たシラノがクリスチャンに言う「彼女を笑顔にしてくれ」という言葉がロクサーヌへ向けたシラノの原動力だと、そしてそれがクリスチャンと共通した想いだと感じているので、その想いがこの作品で感じられたかと思うとそうではなくて。うーん、このセリフ、この作品でもあったかな?(大阪公演が中止になってしまった今、それを確認する術がないのでもし誰か覚えていたら教えてください)結局、シラノは自分の欲求を満たすために、クリスチャンとロクサーヌを利用したんですよね。シラノ自身はそんなつもりなかったし、それでどうなるかは予想だにしていなかっただろうけれど。ロクサーヌに自分の想いを自分の言葉で一文字だって変えることなく伝えたいーそれがシラノの原動力だったのだと思います。だって変えるくらいなら死んだ方がマシなんでしょ。自分の言葉で動いた2人(婚姻の契りを交わすシーン)を見て、シラノは「こんな辛い想いをするなんて」と感じます。それはそうよね。ロクサーヌが心動かされているのはシラノの言葉なのに、そこにいるのはクリスチャン。だからといって自分が真実を話す訳でもなく、それを見守るだけなのはシラノのコンプレックスゆえなんでしょうか。自分の言葉で招いたこと結果をストレートに受け止めるしかなかったし、クリスチャンと同じ土俵にはあがらなかったシラノ。恋に臆病と言えばきれいですが、小心者で狡猾な人だったんだなと思います。 
 この作品はシラノ軸と書きましたが、シラノから見たクリスチャンってどうだったんろうなと思います。入隊したばかりのクリスチャンを守ること、仲を取り持つことをロクサーヌにお願いされたから、クリスチャンと親交を深めたのかな。クリスチャンはシラノにとってはただの封筒でしかなかったのでしょうか。そうではないと思っているし、そこに友情はあると思いたいのだけれど。特にシラノのラップにクリスチャンが“はな”で韻を踏むところ(これはクリスチャン自身のコンプレックスを越えた先のものもあると思っている)とか2人でロクサーヌを口説くところ(ロクサーヌが口説き落とされそうになったら2人でハイタッチするところ)とか、そこに友情が育まれていたと思うんだけどな。友情が育まれていたら、婚姻の契りを交わした“辛い想い”はクリスチャンにも向けられると思うし、なによりクリスチャンに内緒で手紙を必要以上に送らないか。シラノから見たクリスチャン、とても気になります。 
 そして2幕から出てくる“口の渇き”。死と隣り合わせであることがわかるし、意味すると思うのだけど、戦場の最前線では感じずに人生の終焉で感じるシラノの口の渇き。シラノの口の渇きは死というよりは言葉が出てこなくなるということなのかと思います。確かに言葉が発せられるとき、話しているときは唾液が出るし口の中も潤っているもんね(潤ってなければドライマウスです)。ロクサーヌに手紙のことを話して、燃やされて灰になる手紙。それはシラノの言葉も燃やされて煙になる、言葉がなくなるという意味も持つのではないかと思います。言葉が言葉としての意味を持たなくなったときにシラノは初めて口の渇きを感じたのではないでしょうか。この作品の中で唯一実物として手紙が出てくるのは、シラノの人生を彩ってきた、ロクサーヌの心も動かしたシラノの言葉が燃やされて煙になる、そして消えていくことを表したかったのではないかと思います。カフェテラスのセットが組まれていたり、セット・小物ひとつひとつに色がついていたあのシーンが本当に実在するシーンなのか、1655年7月28日の朝 フランス サンノアで亡くなったのは事実であっても、あのカフェテラスでロクサーヌと読書会をし、真実を話し、終焉を迎えるのはシラノの願望だったのかもしれないと思ったりもします。もしかしたらその逆で、あの終焉は事実。それまではシラノが綴った物語だと捉えてもおもしろいです。 

4.クリスチャンについて。

 この作品で唯一感情移入できた人です。ファンだからじゃない?と言われそうだけど、1幕おわりに「誰にも共感できない」って頭抱えたし、感情移入というより2幕の言動に“そうだよね。ようやく気持ちがわかる人が出てきた”って思った人です。 
 この作品はクリスチャンがシラノの部隊に入隊してきたことがきっかけで動いていきます。冒頭のリニエールのラップが大音量なのと情報詰め込みすぎなのもあって聞きとりきれなかったのもあるのだけど、[おんな]のイントネーションを茶化されているのはわかりました。NT版は会場が笑うくらいの英語訛りが強かったと聞いています。今回は関西弁です。文一くんブログには関西弁でラップするところもあったみたいだけど、初日には割愛されていたようです(もしかしたら聞き取れなかっただけなので、割愛されてなかったら教えてください)。関西弁はだいぶ浸透しているし認知されているので想像するのは難しいかもしれませんが、イントネーションが茶化されるのはクリスチャンが地方出身、おそらく田舎出身ということを意味しています。そしてシラノやロクサーヌと同い歳(もしくは同年代)だと思います。フランス・パリから北西15kmにあるサンノアで生活しているシラノとロクサーヌ、地方出身のクリスチャン。同じ年齢でも都会と地方では周りの環境はもちろん、経験してきたことや精神的なものも違うし、それが20歳前後となれば一番大きく違いがあるように思います。つまりクリスチャンはシラノやロクサーヌにくらべ、精神的に子どもだったのではないかなと想像しました。そして文化のちがい。劇場が生活圏内にあり、文学や詩が身近なシラノやル・ブレとそういうものに一切触れてこなかったクリスチャン。クリスチャンの第一声「すばらしい!」は地方から都会に出てきたクリスチャンにとって、見るもの聞くもの触れるもの全てがキラキラして期待に満ちあふれた言葉でした。その一方でシラノとド・ギーシュの手下がラップで闘い、周囲が「シラノ!シラノ!」と興奮していく中、ひとりリズムに乗らず動かずにただ見るだけのクリスチャンは文学や芸術に心動かされないというか周りが高揚していく理由が分からないように見えました。そういう文化に触れる機会がなく、ストレートに言葉を交わすことで育ってきたクリスチャンは自分の気持ちを形容して伝えたこともなかっただろうし、言葉の持つ力を感じたことがなかったように思います。気持ちを言葉にする、伝えることを得意ではないと思っても、あまりコンプレックスに感じたことはなかったのではないでしょうか。クリスチャンが初めてコンプレックスだと感じたのは“ようやく作品で気持ちがわかる人が出てきた!”と私が安心した2幕の戦場でシラノに詰問するシーンだったように思います。 
 ロクサーヌに宛てた手紙の代筆をシラノが申し出たときはロクサーヌの恋心が自分に向けられていることに舞い上がっていたし、“ロクサーヌが喜ぶ手紙なんて書いたことないし、そもそも手紙なんて書いたことない。どうしよう”と戸惑っていてかったように思います。実際うれしくてシラノに抱きついてたし。作品のテーマに「外見と中身」があるのならそれをクリスチャンが感じたのは2幕からだし、気持ちを(相手が心動かされる)言葉にすることが文才のなさがコンプレックスになったのはロクサーヌが封筒はどうでもよく中身が大事!とクリスチャンに語ってるところだったと思います。それまで(1幕)はバルコニーシーンでクリスチャンの後ろにいたシラノが(このシーンの時、シラノとクリスチャンの身長差がかわいかったですね)いつのまに前に出てきてクリスチャン関係なしに気持ちを伝え始めても、クリスチャンは離れてベンチに座り、照明がシラノとロクサーヌだけになっても拗ねるだけでした。ロクサーヌに自身の言葉で伝えたシーンでロクサーヌにして、ロクサーヌが怒りシラノには呆れられても、文才がないことをコンプレックスに感じているようにはみえませんでした。感じてたのかな?感じてたとしても受け入れているというか、そのコンプレックスをどうにかしたいという気持ちはクリスチャンにはなかったように思います。それよりは“ロクサーヌを笑顔にしたい”という気持ちの方が強かったのかもしれません。そう考えるとクリスチャン自身の言葉があまりなかった作品だったように思います。本心をあまり口にしないし、口下手なクリスチャンをセリフや説明を言わずに観客に伝える、クリスチャンを演じるのむちゃくちゃむずかしくない?と改めて思います。 
 クリスチャンが“はな”で韻を踏んでするラップは口下手や言葉を知らないのを越えたところにあって、聞いていて気持ちよかったんですよね。人を揶揄するのは無意識にできるということか。改めて自分の気持ちと向き合って言葉を伝えようとすると思い浮かばないし、ましてや好きだと言ってくれているロクサーヌに嫌われたくないもんね。臆病になる気持ちはよくわかります。 
 そして2幕の“口の渇き”。シラノのところでも書いたけれど、“口の渇き”は死と隣り合わせを意味し、想いや考えを口にすることができないということだと思います。兵士がマダム・ラグノの詩で勇気づけられたように言葉はときに潤いをもたらすものであったと思います。「唇が割れてる キスしたら痛い?」と尋ねるロクサーヌに一歩後ろに下がるクリスチャンの動きはロクサーヌに真実が言えないということの現れだった気がします。キスして唇に潤いが戻ったとき、真実をロクサーヌに伝えてしまうかもしれない。それはロクサーヌを深く傷つけてしまい、笑顔を失くしてしまうかもしれない。という思いからなのかもしれません。 
 クリスチャンのラストにつながるシラノとのキスシーン。真実をロクサーヌに伝えるかどうか、というかシラノがロクサーヌに気持ちを伝えることについて映画(予告:https://youtu.be/hQVmj1stHE4)ではクリスチャンが「決めるのは僕らじゃない。彼女自身なんだ」とシラノに伝えます。私は予告でこのシーンを見たとき、「私が思うクリスチャン像はこっちの解釈なの。真実を知ってどうするかはロクサーヌ自身が決めることだと思う。」と思いました。今回のシラノ・ド・ベルジュラックのクリスチャンは「二人の男が、一人になって、同じ人生を生きる。そういうのはできないのか?」とシラノに口づけをし、委ねます。結局は“ロクサーヌには笑顔であってほしい。幸せであってほしい”というクリスチャンの願いというか、想いに尽きるのかな。キスをすることでシラノの文才(言葉のちから)をもらうというよりは、クリスチャンがずっと持っていた言葉にできなかったロクサーヌへの気持ちをシラノに託すーそんな気持ちからくるクリスチャンの行動だったのだと思います。ここでも自身の想いや考えを言葉ではなく行動で示す。クリスチャンらしいな。
 最終的に突撃の先頭を飛び出して銃弾に倒れます。ある意味、自暴自棄というか自死のようにも見えます。ロクサーヌには真のクリスチャンはもともと存在せず、「封筒はどうでもいい。中身が大事」と言うロクサーヌには実在するクリスチャンは必要なく、存在意義をなくしてしまったクリスチャンの絶望はわかります。外見だけが求められる自分をおわりにしたかったのかな、真の自分で生き直したかったのか、ロクサーヌへの想いに対するクリスチャンなりのケリのつけ方だったのではないでしょうか(戦場の最前線で心臓マッサージ?とちょっと思ったけど) 。
かわいそうではなく、苦しくてもどかしくて残酷で、でも美しいクリスチャンの生涯だったと思います。

5.まとめ

 映画も観て思うのは、結局は何を描きたかったのか、どこにフォーカスを置くのかで作品は変わってくるのではないかと思います。[シラノ][シラノ・ド・ベルジュラック][シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい][愛しのロクサーヌ]、世界中でいろんな形で表現されている古典文学であるがゆえにそうなるのは当然のことです。シラノ・ド・ベルジュラックは恋愛三角関係、想い人が想う人の代わりに手紙を書く、それによって起こる物語と思って観ていました。そうではなくシラノという人の生涯、自叙伝であったと捉えてこの作品を観れば、拗らせることなく受け入れられた作品だったなと思います。そしていくら想像力が必要な作品であってもそこに任せすぎて想像する上で大事なバックグラウンドや要素を省略しすぎたかなと思います。あと、女性像を現代に近づけたのはロクサーヌだけだったんだなぁと。その結果、ロクサーヌに何も共感できなかったし、違和感のようなものを感じました。何を主軸に置いて展開していくのか、それが事前にとは言わないけれど、観劇中に理解できれば、もっと楽しめた作品でした。少なくとも2回は観ないといけない作品、履修や事前の予習もしくは複数回の観賞が必要な作品でした。そもそも複数回観ないと理解できない作品てどうなの?!とは思いますが、観れば観るほど理解が深まり楽しめるスルメのような作品もあるので、この作品はそういうタイプだったのだと思います。
 そしてシラノが愛していたのはロクサーヌではなく自身から出てくる言葉であって、外見のコンプレックスを隠すことで築いたプライドだったように思います。映画ではシラノのさいごのセリフが「I love my pride」でした。今回のシラノ・ド・ベルジュラックもこのセリフこそなかったものの、これが根底にあるのかなと思います。この作品のシラノはそんな自分を受け入れることができたのでしょうか。
 ラブストーリーを望んでいたわけではないけれど、愛する人に自分はふさわしくないと気持ちを胸に秘める人、狂おしいほど誰かを愛した人、愛する人に気持ちを伝えたくても言葉にできない人、三者が紡ぐ恋心にそれぞれ想いを馳せたかったな。と観劇から1か月以上経って思います。

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