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「自分が他人からどう見られるか」をコントロールするには:「メタ認知」という知性

前回の書簡(下の記事)に「メタ認知」という言葉が出てきたのですが、これってあんまりアタリマエの言葉じゃないよなーと思ったので、今日はその「メタ認知」、もとい「自己認知」の話をしようと思います。

やはり自分の持つ信念が社会にとって有害であると気づくにはある程度の認知機能、特にメタ認知が必要になる。

https://note.com/jaya/n/n0163f968a314


「メタ認知」って何?

「Wiktionary」によれば、「meta-」とは「Transcending(超える、上位の)」という意味を持つ接頭辞。

また、自然科学の代表とも言える「physics(物理学)」に対して、physicsよりさらに抽象的な視点で世界を捉える学問を「metaphysics(形而上学)」と称したことから、「〇〇を俯瞰的な視点で捉える」といったニュアンスで「メタ〇〇」という風に使われることもあります。

……と言っても分かりづらいですね。

いくつか例を挙げてみましょう。


① フィクションにおける「メタ発言」とは、物語の中のキャラクターが「自分が物語の中のキャラクターであること」を俯瞰的に認識しているような発言のこと。キャラに「ページ数の都合で……」とか言わせるやつですね。手塚治虫はよく漫画で多用していました。マーベルの「デッドプール」はこれが芸風みたいになってますね。(cf.第四の壁の破壊)

② 作品内で「これが創作であること」を逆手に取ったギミックが存在するような創作を「メタフィクション」と呼びます。これについてはpixiv百科事典の「メタフィクション」の解説が非常に充実しているので、興味のある方は是非どうぞ。『SSSS.GRIDMAN』の結末にはアニオタが大荒れだったらしいけど、個人的には結構好きです。

③ 対戦ゲームで言う「メタる」とか「メタを張る」は、原義の「超える」に近いですね。強敵に対してピンポイントな対策を講じれば、その相手を「超える」ことが出来ます。

④ 最近流行りの「メタバース」は現実の世界(universe)を超えて存在するもう一つの世界というニュアンス……だと思う。これは語構成からは直感的に想像しにくい意味になっていますね。


こう並べてみると、「メタ認知」のニュアンスは①②あたりのニュアンスに近いようです。

何か気に触ることを言われた時に、「あいつマジむかつくわー!!」と思うのが原始的な認知だとしたら、その自分を「あー、今の自分めちゃめちゃ腹たってんなー」と「俯瞰的な視点から」認識するのが「メタ認知」です。

別の例で言えば、入試問題を解いている時に「うわ! こんな問題どうやって解くんだろう……ああでもないしこうでもないし……」と考えるような認知活動に対して、「標準的な問題を全て解けるはずの自分が苦戦するんだから相当な難問だな。この問題は解けなくても差が付かないはずだ」という判断は「メタ認知」に当たります。


実は「メタ認知」と微妙に区別が難しい「自己意識(self-consciousness)」という用語もあります。が、こちらも無尽蔵に概念が拡大されてややこしいことになっているので、一旦この用語は置いておきましょう。

今回扱うのは「自分がどのような状態であるかを、相対化して客観視する能力」であり、以降ではこれを指して「メタ認知」と呼ぶことにします。

「ソクラテス」の言う「無知の知(=私は自分が『知らない』ということを『知っている』)」などは、「メタ認知」の元祖とも言えるでしょう。


有名な「サリー・アン課題」から

ここで一つ、「サリー・アン課題 Sally–Anne test」という題材を紹介します。

The original Sally-Anne illustration by Uta Frith 1985 (from Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sally-Anne_test.jpg)

絵に描かれている話は以下のようなものです。

サリー(左の女の子)がビー玉カゴに入れる。
サリーが部屋を出る。
アン(右の女の子)がビー玉カゴからに移す
サリーが部屋に戻ってくる

ここで、「ビー玉で遊ぼうと思ったサリーが、まず探すのはどこでしょう」という問題が出されます。

神様視点であれば、「箱に入ってるんだから箱を探すのが正解」ということになりますが、サリーは神様ではありません。

サリーには「自分はカゴにビー玉を入れた」という記憶があり、しかも「アンがビー玉をカゴから箱に移した」という事実を知りません。

つまり、合理的に推論すれば「サリーはまずカゴを探し、そこでやっとビー玉がカゴの中に無いことに気付くだろう」という結論になります。

欧米では一般に、ほとんどの子どもが4~6歳くらいを境に「サリーは最初にカゴを探す」と「正答」できるようになるとされていますが、自閉症児をはじめとした一部の発達障害群では正答率が上がりにくいようです。


上記の推論を行う時、回答者は「他人の知っていることを想定し、『その人ならどう考えるか』という視点を仮想的に構築」していることになります。前回の記事の言葉を借りるなら、これが「エミュレータ」に相当します。

このような「他者の心を推測する」という認知活動は、「心の理論」という名で有名になりますが、「心の理論とはどのような能力であるか」「サリー・アン課題の結果はどう位置づけられるか」といった点についてはその後も議論百出しているので、もうちょっと踏み込んだ話が読みたい方は以下のようなレビューも参考にどうぞ。

山本政人. "「心の理論」 は必要か." 研究年報/学習院大学文学部 61 (2014): 119-140.


ちなみに、私が「エミュレータ」(もとい「心の理論」の理論)の古典だと思っているのは、孔子の「己の欲せざる所、人に施す勿れ」です。

欲を言えば「他人に嫌がられることをしない方が良い」というのが孔子の本意だと思いますが、「他人に嫌がられることって何だろう」というのを明確に言語化すると複雑で長い言い回しになるし、あまり複雑なセンテンスでは説諭や啓蒙には向かない。ならば「自分が人にされたらどうかを想像しろ。それで嫌だと思うなら、人にするのも辞めておけ」と諭すのが最も端的で効果的な近似になりうるわけですね。


「メタ認知」と「心の理論」の共通性

さて、「自己認知」の話からやや唐突に「心の理論」の話に飛びましたが、この2つの認知活動の共通点に、もうお気付きでしょうか。

そう、これらには「現在の自分の視点から離れた『仮想的な視点』を設定し、そこからの見え方を考える」という共通点があります。


何か腹立たしいことがあった時、「うおー!ムカツクー!」という「一人称の視点」から抜け出して、「自分は怒っている状態だな」と認知するのが「メタ認知」でした。小説で言えば「三人称視点」や、「神様視点」と呼ばれるものに相当しますが、要するに「太郎は怒っているらしい」とか「今日は先生の機嫌が悪いな」といった出来事と同列に、自分のことを一種の「ヒトゴト」として捉え直す発想に近いと言えましょう。

一方の「サリー・アン課題」では、適切な回答にたどり着くために、「ビー玉は箱に入ってるよ。そんなの僕見てたから分かるもん」と短絡的に考えるのではなく、「サリーの視点ではどうか」と考えることが必要でした。

メタ認知が「自分のことをヒトゴトのように見る」だとすれば、サリー・アン課題が要求するのは「ヒトゴトを自分のこととして想像する」ことであり、いずれにしても「いまの自分の視点から見える世界」を一旦離れることが重要になるわけですね。


実際、自閉症児の研究では、この「心の理論(つまりサリー・アン課題)」と「Self-consciousness(つまり本稿でいうメタ認知)」が、ともに健常人より苦手であることが知られており、以下の論文をはじめとした研究の蓄積があります。

Frith, Uta, and Francesca Happé. "Theory of mind and self‐consciousness: What is it like to be autistic?." Mind & language 14.1 (1999): 82-89.

山本(2014)のレビューでも触れられているように、「心の理論の欠損」で自閉症児の認知特性を一元的に説明する試み自体は上手くいきませんでした。ただ、それは因果関係やメカニズムをうまく説明しきれなかったというだけであって、自閉症児がこうした「メタ認知」や「他者の心の推測」を苦手とする傾向があることは事実として繰り返し確認されています。


こうした機能は、脳で言えば前頭葉の前方、特に前部帯状回を含んだ回路で制御されているようです。以下のような論文では、「心の理論」課題と「メタ認知」課題で、ともにこの領域が活性化していることが分かります。

Qiu, Lirong, et al. "The neural system of metacognition accompanying decision-making in the prefrontal cortex." PLoS biology 16.4 (2018): e2004037.
Eisenberger, Naomi I., Matthew D. Lieberman, and Ajay B. Satpute. "Personality from a controlled processing perspective: an fMRI study of neuroticism, extraversion, and self-consciousness." Cognitive, Affective, & Behavioral Neuroscience 5.2 (2005): 169-181.
Sommer, Monika, et al. "Neural correlates of true and false belief reasoning." Neuroimage 35.3 (2007): 1378-1384.


「知能」と「メタ認知」の交差点

ここまでで、「メタ認知」と「心の理論」が相関する機能である、という話をしてきましたが、これらの機能が更に「ワーキングメモリ」とも相関する……という話があります。

小川絢子, and 子安増生. "幼児における 「心の理論」 と実行機能の関連性: ワーキングメモリと葛藤抑制を中心に." 発達心理学研究 19.2 (2008): 171-182.


ワーキングメモリは「脳のメモ帳」とも「脳内の作業机」とも言われます。

これも非常に議論のある概念なので、今回は深く立ち入りませんが、ひとまず「ワーキングメモリ」とは「情報を頭に留めながら情報処理をする能力」であるとお考えください。

複雑な文章を読解したり、複雑な機械の仕組みを理解したりするには、この能力が必須です。

学力や知能を規定する認知機能であるとも言われますし、ある種の「ジアタマ」とか「頭の回転」といったものも、このワーキングメモリで説明できると私は考えています。


その「ワーキングメモリ」が、どういうわけか「メタ認知」や「サリー・アン課題」と相関するらしい。

これは私なりの解釈ですが、「所与の状況に変化を加えた状況を想定する能力」というのは、「与えられた条件を記憶として留める認知活動」と「眼前の状況に対する、別視点からの見え方を演算する認知活動」の二重問題になっているからではないでしょうか。


アナロジーとして、将棋のような対戦ゲームをイメージすると分かりやすいかもしれません。

将棋のような対戦ゲームにおいて、「何手か先の状況を考える」ために必要なのは、「現在の状況を余すことなく把握して忘れないようにする」ことと、「頭の中で現在の状況に変化を与えていく」という、二つの活動の並列処理です。

ちなみに、「相手の側に立って考えてみる」ことと「自分の状況を客観的な立場から見る」ことが、認知活動として非常に近しいものであることも、将棋のようなモデルで考えると納得しやすいですね。


自分を知る、「自分がどう思われているか」を知る、そして「自分をどう見せたいか」を考える

長々と語ってきましたが、今回の要点はこんな感じです。

・「自分の状況」を客観視するのが苦手な人は「他人の状況」を考えるのも苦手
・上記の能力は部分的に「知的能力」と見なされる側面があり、事実として相関がある

はい、今まで何度も書いてきたことですね。


では、その能力が低い人に救いは無いのでしょうか。


私は「その人が自分の能力の長短を把握し、それに合わせた生存戦略を取れば、今よりマシになる可能性はある」と思っています。

まずは、「自分は一人称視点に固執しがちで、自己の客観視や他人の心の推測が苦手なようだ」と認識することが、「己自身を知る」ことの大事な最初の一歩ではないでしょうか。


自分にそういう能力が不足していると分かれば、それを補うための方法にはいくらでも道が開かれます。

「実際の他人をよく観察する」というのも一つの手です。

これは前回の記事の「エミュレータ」的発想ですね。


「他人の目を味方につける」というのも、また一つの手です。

個人的なオススメは、周りの人から多めにフィードバックをもらうこと。

そのためには、「こいつには何でも言って大丈夫」というポジションを手に入れることです。

人から多めにフィードバックをもらって、その分PDCAサイクルを普通の人の何倍かこなせば、ガチコミュ障からスタートしても数年で接客業こなせる程度のニンゲンモドキが出来上がります。


「こいつには何でも言って大丈夫」と思われるためにはどうするか……これは色々あるんですが、ざっくり言うなら、

  • 「自分が鈍いこと」を何らかの形でオープンにしておくこと

  • 人に本音を自分からどんどん言うこと(ただし悪口にならないように)

  • 人からの本音に対しては絶対に感情的にならないこと

  • 適度に人に頼ること

  • 楽天的であること

こんなとこかなと思います。

これはまた別の機会にちゃんと語りたいネタですが。


それでは、みなさんも良き人間関係を。

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