【短編】朝の4時、夜の4時
はぁっと口から吐き出した息は白く染まる。朝のすすきのは、とても静かでいつもの喧騒が嘘のようだ。
少し冷えてしまった手を擦りながら、まだちらほらと残るネオンの光の間をすり抜けるように歩く。目的地は、ない。
ただ、目が覚めてしまって寝付けなかった。それだけのことだったけど、今日はなんだか良い一日になりそうな予感がしている。
──雪が降ってたら完璧だったな
そんなことを思いながら、カメラに見立てて視界を切り取る。青白い視界の中に、1人写り込んでしまう。四角い世界の中で、瞳と瞳がぶつかった。
これが映画の始まりだったら、たぶん、鐘の音が鳴り響いてる。そんな気がする。
少し猫背のひょろっとしたその人は、私の顔を見つめてから問いかけた。その人の顔に陰る薄暗い影に、どうしても目が離せない。
「……カメラが趣味なんですか」
彼が一瞬、息を飲む。そして、意を決したように口を開く。そのあとすぐに、頬に描かれる「間違えた」の文字。あまりにも分かりやすすぎる表情の変化に、つい笑ってしまう。
「たまたまです」
はにかみながら返せば、安堵した表情へと変わっていく。まるで空模様みたいで、目が離せない。
「寝れなくて、お散歩ですか?」
「朝早く目が覚めちゃってです」
「そのパターンもあったか」
手をポンっと叩いた、少し古い動きにまた笑ってしまう。なんだか、不思議で可愛らしい人。
「ご一緒しても?」
おずおずと尋ねられれば「No」は出てこなかった。一回頷いて、癖で笑顔を作り出す。そのまま彼の顔に焦点を合わせれば、「どうして」という文字が滲んでいた。
自分でも、言うつもりなかったんだろうな。なんて、気付きながら気づかないふりをする。どうしてか、私もわからないけど。このまま隣にいたい気分だった。
頭の中で話題をぐるぐると探す。
「寝れなかったんですか?」
「そうなんです」
「なんて呼べば良いですか?」
「ヨル」
単語で区切られて、帰ってくるぶっきらぼうな言葉。それが、妙に心地よくてついまた笑ってしまう。
「ヨルさんは、どんなお仕事してるんですか?」
「秘密。えっと、君は?」
「なんの質問ですか」
わざとらしく、意地悪に返せば口元に少しだけ浮かぶ笑み。
「君のことは、なんて呼べば良い?」
「じゃあ、アサ」
「じゃあって何」
いつのまにか、変わっているタメ口にも嫌な気がしない。するりと心の隙間に浸透していくように、隣のヨルの体温が気持ちいい。
「ヨルは、なんで寝れなかったの?」
急にタメ口に私も変えてみる。ヨルは、嫌そうな素振り一つ見せず、顎に指を当てて考え始めた。
「今日が終わるのが嫌だった、のかな」
「良い一日じゃなかったんだ。じゃあ」
「たぶんそう。アサは、いつもこんな早いの?」
「今日は本当にたまたま」
まばらに歩く人たちは、私たちを避けるかのように私たちの横をするりと通り抜けていく。2人だけの世界みたいで幻想的だ。ちらちらと消えかかっている街灯すら絵になっている。
ヨルの話に耳を傾けながらも、また、四角で視界を切り取る。カメラを始めるのも良いかも、なんてうっすら考えながら。
「なんだか、映画みたいだ」
「私も思ってました」
「じゃあ、映画みたいに賭けをしない?」
たぶん、想定してる映画がだいぶ古い、洋画な気がするけど。突っ込むのは無粋かな。
想定できる賭けに、笑いながら頷く。
「また、次会った時連絡先教えてよ」
「そんなんでいいんですか?」
「そんなんって何」
「付き合ってーとか、結婚してくれーとか」
「初対面の人に何を」
くすくすと笑うヨルの顔には、最初に見た陰鬱な影はもう無かった。
「でも、それもありだね」
「え」
「次会ったら、会えたら結婚しちゃう?」
「いいよ」
どうせ会えないだろうとか、実現されないだろうなんて気持ちは1ミリもなくて。本当にそうなって良い気がした。だから、ヨルの差し出された小指に、自分の小指を絡める。
「約束」
「果たされるのかな」
「そうなったら、良いなって思ってる」
「僕も」
「たった数分話しただけなのにね」
繋がれた私とヨルの小指は目的地もない散歩が終わるまで繋がれたままだった。
「じゃあ、また」
「会えたら、結婚しよう」
「じゃあ、その時はとびきりのプロポーズします」
「しますなんだ」
「だって、ヨルはそういうタイプじゃないでしょ」
たった数分間の2人の世界。たった数個の言葉。それなのに、ヨルのことが何故かわかった気がした。
「そうだね、じゃあまたねアサ」
「次こそは、本名でも教えてもらおうかな」
「アサもね」
繋いだ小指を離して、手を振る。ヨルの背中を見送りながら、また指の四角でヨルを切り取った。
<了>
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