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映画、善き生徒たち。見聞録 - 2

  • 映画タイトル:La scuola cattolica(善き生徒たち)

  • 製作国:イタリア

  • 監督:Stefano Mordini

  • 公開年:2021年

  • 時間:106分

  • 見た言語:イタリア語(原語)、日本語字幕

  • 見た場所:Netflix


1975年イタリア、実際の強姦殺人事件を基に制作された映画。犯罪者役の3人は、実際の犯罪者たちに本当によく似せてあるので、事件について調べた方は驚くと思います。

残忍な事件なので、見たくない方はここで別のページへの移動をおすすめします。また、実際の事件に基づく作品に「ネタバレ」という概念があるのかは分かりませんが、先に内容を知りたくない方はぜひ鑑賞後に読んでください。


背景・全体

1975年9月末のある日、2人の若い女性が、3人の男子生徒に誘拐されます。2人は何度も強姦され、最終的にひとりは殺害され、もうひとりは生き延びたものの身体中に暴力を振るわれ、薬物を打たれ、見つかったときの姿は目を覆いたくなるものです(発見時の写真が残っています)。

日本語のタイトルは「善き生徒たち」ですが、イタリア語では「La scuola cattolica」。直訳してしまえば、単に「カトリック学校」ですが、ローマカトリック教会のお膝元、イタリアにおいての「カトリック」という言葉が持つ意味を考えた結果、「善き生徒たち」というふうになったのだと思います。

イタリアではドイツ同様、私立の学校よりも公立校の方がいわゆる勉強のできる人が集まる印象です。この映画に登場する学校は、中高生くらいの年齢のお金持ちのお坊ちゃんたちが通う、教会運営の私立男子校です。
お金があっても勉強が得意な子たちは評判のいい公立校に通えるので、私立校に通っているという時点で、何かしらの信念があるか、お金はあるけど勉強が好きではない/苦手な子どもたち、という想像をする人が多いのだと思います。実際、映画の中でもパーティー三昧のボンボン、という描写が何度も登場します。

「何かしらの信念がある」というのは、映画にも登場しますが、この場合は家族が「敬虔なカトリック教徒」であるということです。敬虔であることは本来、誰にも咎められることではありません。ただし、それが行き過ぎると、抑圧されて苦しい思いをする人間も出てきます。

この映画で描かれるのは、教えを盲目的に、あるいは極端な仕方で信じすぎてしまうが故に、目の前の現実を受け入れられないとか、性への興味を押し殺そうとして、逆に極端な行動を起こしてしまうとか、そのようなものです。

映画の前半では、宗教の教えによって「善くあるはず」の生徒たちの、何気ない、しかしあまり健康とは言えない日常が、退屈してしまいそうなほど長ったらしく描かれます。

善い教えによって、この男子たちは善いのだと信じるくせに、自らの行いについては省みない親や教師たち。生徒たち自身も、善くあることを試みて、そうあるのだと信じようとしているのかもしれません。しかし描かれていくのは、一般的な男子学生たちが経験しそうなことばかり。所詮は人間であるという点を見て見ぬふりして、「善く」振舞わなければいけないことへの矛盾が何度も垣間見えます。

事件の描写

映画の後半で、日常だったはずの場面が、突然「事件の序章」へと切り替わるのを感じます。事件というのは確かに始まりと終わりがあるはずなのに、実際は一体どこからが事件なのか、はっきりと線引きできるわけではありません。それでも明らかに、徐々に、あるいは急に日常ではなくなっていくリアルな感覚を味わうことになります。

何かの事件に巻き込まれた被害者は、自分が「事件」の渦中にいると気づいたときに、まさに唐突に日常から引きずり降ろされたような感覚に陥るのだと思います。当たり前に、いつもの日常の中にいると信じていたのに、いつのまにか非日常の悲劇の真っ只中にいるような感じです。でも、それに気がつくまでは、違和感すらないのかもしれません。前半の長すぎるほどの日常描写があるからこそ、この感覚が良く表現されているように思います。


演技について、被害者を演じた俳優2人も素晴らしいのですが、特に加害者を演じた3人の役者のねっとりとした嫌な笑い方、目の前の被害者たちを人間とも思っていない態度、後先を考えられない子どもっぽさが、あまりに現実世界で目にするそれと酷似していて、見るのをやめたくなるほどでした。

映画では、彼女たちが住んでいる地域で格差が描かれています。加害者3人、いわゆるボンボンの彼らにとっては、彼女たちは「人間」ではなく、地位もお金もない、大切にしなくてもいいと思うような「モノ」というのがはっきり描かれています。そういった差別意識に加え、ホモソーシャルな学校での日常と、女性に対する蔑視などが複雑に絡み合い、この世に生を受けて日々を生きていた2人の人間を、壊れても消えてなくなってもだれも困らない「モノ」として扱う姿を映像で見るというのは、かなり強烈です。

作品中に性的暴行の直接的な描写は殆どありませんが、事件の最中(被害者が囚われている間)に、加害者の男性器が映し出される場面があります。その突然の性器の登場こそが、性的暴行の生々しい汚らしさを強めていると、わたしは感じました。彼らの愚かな行為は、性的欲求からというより、暴力を振るいたいという欲求、他者を貶めて支配することで自分の心を保ちたいというような幼稚さから来るのだと理解しました。

突然の「被害者」への転身

この世は善悪二元論で語れるわけではありません。「加害者が悪い」と言うことは簡単なことですが、なぜ少年たちが犯罪者になったのだろうと考え始めると、なかなか答えはでません。

犯罪者を育てた親が悪いのでしょうか?ある加害者の親は、厳しいながらも息子のことを考え、子育てに悩んでいたようです。厳しい学校が悪いのでしょうか?加害者たちは確かにこの学校に在籍し通学していましたが、彼らが学校の理想とする学びを得ていたかは疑問です。また、すべての生徒たちが犯罪者になったわけではありません。同じ理由から、キリスト教・カトリック教会の教えが悪いというふうにも思いません。

でも確かに言えることは、この3人が他者に不必要な恐怖を与え、彼女たちの身体と命と尊厳を激しく傷つけた加害者であること、そして、事件さえなければ、被害者だけでなく加害者でさえも、普通の少年少女、ごく普通の人間でいられたということです。(この場合は異)性に興味を持ち、駆け引きをし、出会いを楽しむ普通のティーンエージャーのうちの3人が、別の2人を突然「被害者」にしてしまったのです。


わたしの思うこの映画の価値は、信頼していた世界あるいは人間に裏切られ、自分の意思とは裏腹に、あるとき唐突に「被害者」へと転身させられるという過程を追体験できるという点にあります。できることなら一度だってしたくないこと、経験しなくて済むならそれでいいようなこと、それでも誰かが経験してしまった悲劇を、わたしたちに伝えてくれるのです。

「被害者」というレッテルを貼られた人は、その後ずっとそれを重荷として背負って生き続けなければいけません。映画の最後には、この事件をきっかけにイタリアで「強姦」という罪の扱いが変わったことが知らされます。しかし同時に、それでも軽すぎる刑罰と、逃亡した加害者のことも文章として映し出され、野放しにされた加害者と同じ世界を生きなくてはならなかった女性に思いを馳せることになります。

最後に

現実に起こった悲惨な出来事であり、後味はとにかく最悪なので、繊細な方には特に、元気なとき以外にはお勧めしません。

命を落としたRosaria(ロザリア)はもちろん、生き延びたDonatella(ドナテッラ)も、その悪夢の日を境に「被害者」にさせられました。ドナテッラは、自分が被害者であるということを忘れられる瞬間があったでしょうか。少しでも「被害者としての自分」を忘れられる時間があったのなら、わたしの心がほんの少し楽になります。

たいていの犯罪行為が「信頼を裏切る行為」です。その裏切りが、ひとりの人間の人生すべてを破壊してしまう威力があることを、社会に生きる人間として忘れずにいたいと思います。

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