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【OAK】オークランド、1979年。 250人の観客しか来なかった夜

目下、2023年ドラフト全体1位指名権に大きく近づく、シーズン勝率最下位争いの渦中にあるオークランド・アスレチックス。

その人智を超えた弱さが、オークランドのフランチャイズ史上で最悪と言われたチームに、何年もの時を越えて再びスポットライトを当てています。


4月17日

1979年4月17日は、確かに4万人の観客を集めるには難しい日だったでしょう。

そもそも観客が集まりづらい火曜日のナイトゲーム。
午前中には激しい雨に見舞われ、4月だというの気温1桁台のひどく冷え込む日でした。
そして何より、その1979年シーズンのA'sには誰も期待を寄せていなかったのです。

653枚のチケットが売れたものの、最悪なコンディションのせいもあって、実際に球場に現れたのはもっと少ない人数でした。

球場がまるで「地元の図書館」のような閑静な空気に包まれているのを見かねて、選手が二階席にいる観客に下に降りてくるように呼びかけました。
そうしてコロシアムのわずか250人の”群衆”はバックネット裏に集結し、寒さに耐えようと身を寄せ合いながら試合を見守りました。

「高校の試合のようだった」(三塁手のウェイン・グロス)球場の雰囲気とは裏腹に、マリナーズとアスレチックスは白熱した試合を演じました。

アスレチックスが序盤に5点のリードを奪うと、マリナーズが7回に試合を振り出しに戻します。
9回裏にアスレチックスが一死満塁のチャンスを作ると、打席には控え捕手のジム・エシアン。

エシアンは実はインフルエンザに罹っており、その日の朝は「プレーできないだろうな…」と思っていたとのこと。しかし、正捕手の選手の怪我で途中出場し、しっかりとサヨナラの好機をモノにしました。

6-5。

アスレチックスは79年シーズン最初の(そして数少ない)サヨナラ勝ちを決め、250人の観客に勝利を捧げました。
試合後に選手たちは「寒い中足を運んでくれて、そして試合を見てくれてありがとう」と観客たちに感謝を伝えたそうです。ファンも選手たちとの交流を楽しみました。

悲壮感漂う”最悪の夜”は、そこで体験した者にとっては特別な夜でもあったのです。



悪徳オーナー、チャーリー・O・フィンリー

そもそもアスレチックスは1972年から1974年までワールドシリーズ3連覇を成し遂げた強豪でした。
たった数年の間で、メジャーリーグ史に残るこの常勝軍団に何が起こったというのでしょう。

アスレチックスを振り回したのはオーナーのチャーリー・フィンリーでした。

グリーン&ゴールドの奇抜なユニフォームを導入し、DH制の生みの親でもあるフィンリーは、革新的なオーナーとして歴史に名を残す一方で、傲岸不遜な独裁者でもありました。

フィンリーは驚くべきことにオーナーでありながら、オークランドにおける野球の決定の全てを司っていました。
ドラフトやトレードなどのトランザクション、ラインナップの提案をはじめとするフィールドの判断への介入、はてはユニフォームのデザインやオルガン奏者の曲目リスト策定まで…。

そして、さらに驚くべきことに、フィンリーの独裁は成功を収めていました。

歴史に残る70年代のワールドシリーズ3連覇は、フィンリー抜きに語ることはできないでしょう。
彼はこの偉業を、自らが契約し、育て上げ、トレードで獲得した選手たちで成し遂げたのです。


しかし、フィンリーの黄金期も終りを迎えます。
フィンリーを玉座から引き下ろしたのは、彼の”圧政”に耐えかねた選手たちの革命でした。

フィンリーは非常に”ケチ”であることで知られていました。選手のサラリーを抑えるためならどんな手段でも講じるフィンリーは、主砲のレジー・ジャクソンやエースのヴァイダ・ブルーのような高給に値するような選手との関係をこじらせました。

そうして迎えた1974年がフィンリーのみならず球界の歴史的転換点となります。
A'sの大エースだったジム・”キャットフィッシュ”・ハンターが球団側からの賃金未払いを主張。これを球団の契約違反と認めた公聴会がハンターを史上初の”フリーエージェント”と宣言したのです。

キャットフィッシュ・ハンター

ハンターが巨額の契約を手にしてニューヨーク・ヤンキースに移籍したのを皮切りに、2年後の1976年には正式にフリーエージェント制度が導入されました。
自由を手にした選手たちは、もはや横暴でケチで嫌われ者であるフィンリーの下に残ることはなく、強豪チームだったアスレチックスは骨抜きになりました。

フィンリーもフィンリーで、FAで去る選手に一切の未練を見せませんでした。

そればかりかフィンリーは球団運営にも関心を示さなくなっていきました。1978年にはチームのペイロールはリーグ平均の半分以下にまで切り詰め、あれだけ内政干渉を繰り返していたにも関わらず、もうフィンリーが試合を見るために足を運ぶことも無くなったといいます。


副社長MC ハマー

低迷期に突入したA'sがいかに滅茶苦茶な状態であったかを示す有名なエピソードがあります。
今ではすっかり敏腕を奮うビリー・ビーンの指定席ともなっている副社長を、かのMCハマーが務めていたのです。

球団運営に興味のなくなったフィンリーはチームの整備を怠るのみならず、球団職員も続々と解雇。フロントには職員がわずか6人しかいなくなりました。

たった6人のフロントオフィスで副社長を務めていたのが、後に史上最もアルバムを売り上げたラッパーとなるMCハマー(当時17歳)だったのです。

後のMC ハマーことスタンリー・バレルは、コロシアムの駐車場で夕食代を稼ぐために踊っていたところをフィンリーに”スカウト”されました。数々の選手を発掘し、トレードで獲得してきたフィンリーのキャリアの中でも、これは最も成功したスカウティングかもしれません。

仕事を与えられたバレルは持ち前のアピールの上手さを発揮してバットボーイからフロントの仕事に昇格。その間、ハンク・アーロンに顔が似ているという理由で、A'sの選手から「ハマー」というニックネームも頂戴しました。

ついに副社長に任命された(もちろん冗談で)バレルは、もっぱら自身の会社の本拠地があるシカゴにいることが増えたフィンリーにプレーバイプレーで試合の戦況を伝える電話係を務めていたそうです。

フィンリーの球団売却と同時にフロントを離れたバレルは、音楽活動を開始。そこからの活躍は周知の通りだと思います。


「オークランド市民33万人のほとんどが、勤勉で神を敬い、法律を遵守し、そして野球が嫌いという共通点で結ばれている」

A'sとオークランドにとって救いだったのが、1979年が絶望のトンネルの最後尾だったという点です。

トンネルから脱け出す光明のひとつが、1979年にデビューしたリッキー・ヘンダーソンという名のルーキーでした。弱冠20歳のヘンダーソンは6月にデビュー。打撃成績はパッとしなかったものの、わずか89試合の出場で33盗塁を決めるなど、開花の予感を漂わせていました。

そしてもう一つの光明は更に大きいものでした。新しい球団の引き取り手が見つかったのです。
オークランド移転以来、フィンリーは再移転への願望を大っぴらにしてきました。一時はデンバーへの移転が決まりかけていたともいいます。常勝軍団が解体されてからというもの、オークランドの住民は新聞でA'sの移転が決定したというニュースがないか常に確認していたそうです。

そんな中、ベイエリア出身の実業家ウォルター・A・ハース氏がA'sの買収に名乗りを上げました。1980年の終わりに買収は完了し、ハース氏はA'sをオークランドに留めることに成功しました。

リッキー・ヘンダーソンをはじめとして若き才能が芽吹き始めていたアスレチックスは、低迷を脱出することに成功します。
2年後の1981年、4月17日に行われたマリナーズ戦は5万人を集め完売。そのシーズンを6年ぶりの地区優勝で終えました。


40余年も昔のこの荒唐無稽な球団の実話は、未だに鮮度を失うことはありません。
むしろ1979年のアスレチックスは2022年のアスレチックスと多くの共通点を持つようにも感じます。

フランチャイズを顧みないケチなオーナー、去るコアプレイヤー、ジョークのような動員数。移転の危機もまだ完全に去ったわけではありません。

アスレチックスは今秋、オークランド市における新球場計画の最終・最重要局面を迎えます。
このエキセントリックな歴史を持つ球団の居場所は、デンバーでもラスベガスでも他のどこでもなく、変わらずオークランドであってほしいと個人的には切に願うのです。




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