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短編小説 指を数える(5/5)

前回のお話

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 深夜の高速道路は、死んだように静まり返っていた。仕事を終えてから、地下鉄の駅まで行って、そこから掌に書かれていた番号に電話をかけた。小暮さんは低く落ち着いた声で、住所を告げた。もう電車はないから、タクシーに乗ってくるようにとも。聞いたこともない場所にある、名前からすると古い団地のようだった。

 小暮さんの住んでいる棟にタクシーが止まると、思っていたより少し若くて、恰幅のいい白髪の男の人が立っていた。男は運転手に料金を払うと、車を降りて呆然としている私に、
「よく来たね」
 とだけ言って、にっこりと笑った。近寄るとやはり小暮さんのにおいがした。
 静かで陰鬱な雰囲気なのは、時間のせいだけではなかった。建てものが古びているだけではなく、団地らしい生活の匂いが欠落している。階段の下に停めてある子供用の自転車とか、賑々しく干されている洗濯ものとか、そういうものがない。新築で建てられたときから、住人が入れ替わることなく、団地ごと歳を取ってしまったような、淋しいところだった。

 小暮さんについてコンクリートの階段を三階まで上った。部屋のドアを開けると、私が入り浸っていたおじいちゃんのにおいが鼻腔に飛び込んできた。小暮さんが年季の入ったガス台に薬缶をかける。向かい合って、テーブルに座っても、何からどう話したらよいのか、わからなかった。
「指を見てくれないか?」
小暮さんはそう言うと、ポケットの中から、小さな紫色の布の包みを取り出した。包みの中からは、小さくて白い三片の骨が出てきた。
 頭の中で何かが音を立てて弾けた。
 
 布団の上で手遊びをしていたおじいちゃんとみっちゃんを見た私は、おじいちゃんの鋏をとっさに握り締めた。親指と人差し指の間を思い切り伸ばして、鋏の刃を開く。
 指は、思ったよりずっと固かった。
 鋏の刃は乾いた金属音を出して、ぴったりと合わさり、みっちゃんは、恐怖に裏返った声を上げた。布団の上に落ちた指は玩具みたいに見えた。足の甲が生温かい血で濡れていた。
 
 その後のことを、はっきりと思い出すことができない。しばらく病院に入院し、引越し先のマンションに戻った。おじいちゃんは私がいない間に脳出血で倒れ、家に帰ってくることはなかった。お見舞いに行ったときのおじいちゃんは、口も鼻も透明な管で機械につながれていた。新しい家も、学校も、先生の顔も、つるつるとして捉えどころがなくて、誰に何を言われても声がおかしな具合にこだまして、よく聞き取れなかった。言っていることはわかっても、意味がよくわからなくなったのだ。
 
 三片の骨を掌に乗せてみた。あのときの指はいったいどうなってしまったのだろう。骨は、小さく頼りなく、軽かった。みっちゃんはあれからどうしてしまったのだろう。みっちゃんの名前を口にしたら、指のないみっちゃんがどこまでも追いかけてきそうな気がして、私は新しいつるつるの世界からみっちゃんを追い出してしまった。

「娘の指の骨なんだ。生きていればヨリさんと同じぐらいの歳になる」
 私は目を見開いたまま、うなずきもせず、小暮さんの顔を見る。
「手癖の悪い娘だったから罰を与えたんだ」
 小暮さんが、私の左手に視線を落とす。
「この傷は……違うの。指なんか切ってないし、私は小暮さんの娘じゃない」
 そう言った瞬間に、左手の小指の痛みが突然戻ってきた。
 おじいちゃんとみっちゃんが楽しそうに手遊びしているのが悲しくて悔しくて、私はおじいちゃんの鋏をつかんだ。
 みっちゃんなんか家に呼ばなければよかったのに、弟の部屋で朝まで寝かしておけばよかったのに、みっちゃんの指なんかなくなっちゃえばいいのに。
 ヨリちゃんもいっしょに遊ぼうよと、みっちゃんに言われて、仲間はずれは私なんだと思った。私は私がものすごく可哀想になって、どうしたら、みんなに可哀想と言ってもらえるか、とっさに考えた。
 切ったのは、私の指だった。
 それから、誰も、何も好きにならないように、一片のえこひいきもない世界に閉じこもるように、眠りの中に逃げ込んでいた。
 
「私の指を小暮さんにあげます。私をここに置いてください」
私という存在そのものを、小暮さんにあげたい。
 セックスしてもいいよ、という意味に受け取られてしまうと思い、いやもちろん小暮さんがそういうことをしたいのであれば、してくれてもいいけど、そうではなくて、存在ごと委ねてしまいたいということをどういうふうに伝えるべきなのか必死で考えた。
 小暮さんは少し驚いて、でも私の言うことが想定内であったかのように落ち着きを失わずに、
「ヨリさんの指が欲しいわけじゃないんだ。娘とヨリさんを一緒くたにして、悪かった。ここには、居てくれてもいいけど、ヨリさんがいるべき場所ではないと思うから、帰った方がいい。でもヨリさんがなんでそんなふうに思ったのか教えてくれないかな」
 小暮さんは、私が思っていたよりずっと常識的でまともな人だった。
「いつも会いに来てくれるから、勘違いしちゃってごめんなさい。小暮さんは私のおじいちゃんに似てて…おじいちゃんは家族の中でただひとりだけ、私を可愛がってくれた人なんです」
「ひとつだけ聞いていいかな。ヨリさんの指に何があったのか」
 ためらいがちに聞く小暮さんは、縋るような眼をしている。
「お友達が家に遊びに来たときに、その子があんまりおじいちゃんと仲良くするから、私は面白くなくて、自分の指を切り落としたんです。それから、おじいちゃんにはほとんど会えないまま、亡くなりました。病床で私の指のことをずっと心配しながら」
 とにかく、私の話を小暮さんに聞いて欲しくて、夢中になってすべてを話した。話し終わったときには、夜が明けていた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、明るくなった部屋で見る小暮さんの顔は、私が知っている小暮さんにも、おじいちゃんの顔にも見えず、まったくの他人のように見えた。
 小暮さんは、時々うなずきながら私の話を熱心に聞いてくれたけれど、その表情に、私の指を延々と数える手から感じられる、終わりのない情熱のようなものはなかった。
 私は小暮さんの家を辞した。 
  別れ際に、また、いつでもおいでと言われたけれど、再び会うことを期待しているような言い方ではなかった。
 
 それから、スリーピング・ビューティーの仕事は辞めた。一日中眠ることができなくなってしまったからだ。その代わりにまた斎藤さんにバーメイドの仕事を紹介してもらった。
 ユタカはまだ、私のことが好きだと言ってくれる。はじめて会ったときから、放っておけなかったのだという。失くしたものにとらわれたり、ひとりの人やひとつのものを選べなかったり、やたらと眠ってばかりだったのは、選択することによって自分を傷つけるのを恐れていたからだった。それがわかったからといって、急に前向きな人生を送れるようになるわけじゃないけれど、好きな人やものに囲まれているのも悪くないと思えるようになった。
 
 ユタカが帰ってくる前に、ビールを買いに行こうと思って、コンビニに寄った。
 満月に近い明るい月が出ていた。空に輝いていても、見えないところに沈んでいても、月は月であるように、失ったものも、今あるものも、同じように好きでいたいと思う。
 月を見ながら、小暮さんはまだどこかで誰かの指を数えているのだろうかと考えた。なぜだかはわからないけれど、もう、数えてはいないような気がした。
                              (了)                                  


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