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短編小説 指を数える(4/5)

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 朝の寒さで目が覚めた。夢の中で強く握り締めていたおじいちゃんの鋏を手の中に探した。何もなくて、心の底からほっとする。
 夢とは思えないほどリアルだった。考えれば考えるほど、あれは夢ではなくて現実に起こったことのように思えた。
  
 私にはみっちゃんという小学校に入学したときからの仲良しの友達がいた。交通量の多い県道を自転車に乗っていかなければならないところに住んでいたので、どんなにみっちゃんのことが好きでも、一緒にいられるのは学校の中だけだった。時々厄介払いみたいに、みっちゃんの家に車で連れて行ってもらえることがあった。みっちゃんの家は、アトピー持ちだった弟のための、健康食品を販売している農家に行く途中にあった。蜂から作られる何か、だったことは覚えているけど、ありとあらゆる民間療法を試していたので、それが正確になんという健康食品だったかは、覚えていない。
 
 みっちゃんのお母さんは、どこかの工場で働いていて、「忙しい」というのが口癖のようだった。だからみっちゃんのお母さんに、みっちゃんをどこかに連れて行くという発想はなく、みっちゃんが私の家に遊びに来たことはなかった。
 みっちゃんのお母さんが、何かの手術で入院しなければならなくなったときに、みっちゃんが初めてうちに泊まりに来た。みっちゃんはひとりっ子で、お父さんは出張がちだった。
 みっちゃんのことは大好きだったのに、自分の家のなかにみっちゃんがいると、どういうわけか居心地が悪いように感じた。みっちゃんは、食が細くて、お箸を使うのが信じられないくらいに下手だった。みんなが、というかおじいちゃんがみっちゃんに気をつかって、おかずをとってあげたり、しょうゆをかけてあげたりしているのをみると、やっぱりみっちゃんはうちに来ないほうがよかったと、思って、そう思ってしまったことを慌てて否定したりして、ごはんを食べた気がしなかった。
 
 夜は私と弟の部屋に布団をふたつ敷いてもらって、眠ることになった。母は、弟の部屋に普段使っていない布団を敷くのが嫌そうだった。私と弟の部屋といっても、私はほとんどおじいちゃんの部屋で寝ていたので、そこはすでに、私の部屋ではなかった。埃をひきつけるぬいぐるみのようなものは一切なくて、弟の布団もベッドもシーツも高級で特殊な素材をつかったものだった。
 
 胸の上に置かれたみっちゃんの腕が重くて、私は目を覚ました。自分の部屋はまるでよその家のようだった。カーテンの隙間から一筋だけ街灯の光が差し込んでいて、その光をじっと見ていると、そのなかで細かな粒子が不規則に移動している。母が心の底から憎んでいる埃だった。弟が眠りながら小さな咳をした。私もみっちゃんも、この部屋にいるべきではないと思った。私はみっちゃんを揺り起こすと、足音を立てないようにおじいちゃんの部屋へ移動した。
 おじいちゃんは一度眠ってしまうと、小さな物音で目を覚ますことはない。おじいちゃんの布団に、みっちゃんと私のふたりがもぐりこむスペースはなかったので、みっちゃんを布団に寝かせて、私は布団の脇の畳の上に横たわった。
 翌朝はみっちゃんとおじいちゃんの低い笑い声で目を覚ました。ふたりは布団のなかで、小さな声で歌を歌いながら手遊びのようなことをしていた。わたしがそっと畳から起き上がると、おじいちゃんは、
「ヨリちゃん、おはよう」
 と、いつもと変わりない調子で言った。空気の冷たさとあたりの暗さから、まだ朝の早い時間のようだった。それから、おじいちゃんは布団から起き上がって部屋ふすまを開けた。このくらいの時間に小用に立つのがおじいちゃんの習慣だった。みっちゃんも起き上がって、
「ねえ、ヨリちゃん、ヨリちゃんのおじいちゃんに教えてもらったの」
 と言って、私の手を取った。私と手遊びをするつもりだったのだろう。私はみっちゃんの手を払いのけて、立ち上がった。立ち上がると、おじいちゃんのスチール製の机の上においてあった、洋裁用の鋏が目に入った。
 それから――。
 
 もう一度眠ったら続きが見られるかもしれないと思って、目を閉じた。でも、とろりとしたまどろみはかけらほども残っていなくて、もう眠れそうになかった。
 みっちゃんのことを必死に思い出そうとした。あの日、うちに遊びに来たあとのみっちゃんの記憶が、まるでない。引っ越して転校したあとの学校も、先生も同級生も、つるつるとして実体がないみたいで、でも、その中にみっちゃんの顔を見つけることはできなかった。たぶん、転校したころから、私は特別に誰かを好きになってしまわないように、何かを自分の意志で何かを選択してしまわないように、ずっと注意を払いながら、生きてきたのだと思う。
 それなのに、なぜ小暮さんにだけはこんなにも引き寄せられてしまうのだろう。
 
 それからの生活もやはり単調だった。昼頃からスリーピング・ビューティーに行って、夜中まで眠りこけて、地下鉄に乗ってユタカのいないアパートに帰り、また眠る。
 ユタカは、二日間ほど家を空けていただけで、三日目の深夜には、何事もなかったように、アパートに戻ってきた。
 スリーピング・ビューティーでは、小暮さんよりもずっと若い人が眠る私を眺めに来た。若いといっても小暮さんよりは若いだろうと感じるだけで、いくつなのかはわからない。整髪料やシェービングローションとは明らかに違う、ふんわりと香木みたいな香りをさせていて、とその人がいるだけで、室温が少し上がるような気がするのだ。紙をめくる音と、鉛筆が紙の上を走るひそやかな音がした。しばらく眠った振りをしていた私は、鉛筆の立てる小さな音を聞きながらまた眠りに落ちた。
 
 ドアを静かに開ける音で、もう一度覚醒すると、部屋のなかには草いきれのようなにおいが残っていた。とてもわかりやすい人でよかったと思う。どこで働いていても、誰とつき合っていても男の人が射精してくれると、安心する。好きになったりしなくても、とりあえず何かしらその人の望むものを与えることができるから。
 こういう人と静かに暮らすのも悪くないと思った。でも、わざわざこういうところに来るくらいだから、普通に結婚していたり、家庭を持っていたりするのかもしれない。
 
 私は、ぐっすり眠り込んでしまわないように、小暮さんを待っていた。昼といわず夜といわず、眠りから覚めると、今まで思い出すことのなかった古い記憶が蘇ってきていた。みっちゃんのことも、おじいちゃんのこともかなりはっきりと思い出せるようになっていた。
 
 あのスケッチブックの人が現れてから、一週間ほどあとに、小暮さんは私のところに戻ってきた。ずっと深く眠らないようにしていたので、すぐにわかった。懐かしいおじいちゃんみたいなにおいがして、小暮さんが私の手に触れ、ゆっくりと私の指を数え始めた。
 私が行くべきところは、小暮さんのところしかないような気がしていた。おじいちゃんの代わりだと思っているわけではなかった。でも、やっと、私の完璧に均質で平坦な世界を壊してもらいたいと思う人が現れたのだ。
 目を開けたり、小暮さんに話しかけたりすると、監視カメラの向こうのマヤにばれてしまう。どうしたらいいのかわからなくて、私も小暮さんといっしょに心の中で自分の指を数える。そうだ、掌に字を書けばいい。私が、小暮さんの手首をそっとつかむと、小暮さんの手がぴくりと震えた。
<つれていって>
 小暮さんはポケットからボールペンを出して、私の掌に何かを書き付けた。

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