短編小説 指を数える(1/5)

 その奇妙な仕事の話を持ってきたのは、同棲していた恋人のユタカだった。
 
 毎日毎日、何にもしたくなくって、眠ってばかりいた。私は何よりも眠るのが好きなのだ。ユタカは働くのが好きで、眠る暇もないくらいに働いてばかりいる。
 
 結果的にユタカに養ってもらってはいるけど、べつに頼んでそうしているわけではない。眠ってばかりの私のことがいやになったら放り出せばいいというだけの話だ。
 
 物心ついたときから私は、睡眠以外のことに切実な欲求を感じたことがない。物欲も乏しく、食事も一日一回しかしない。猫を飼うより安上がりな女だと思う。
 
 それにしても、ユタカはなんであんなに働くのが好きなのだろう。そりゃ労働は尊いと私も思うけど、ただ単に労働の尊さを噛み締めるためだけに、あんなにしゃかりきになって働いているのではないような気がする。それだけはよくわかる。

 疲れたね、とか、がんばったね、とか、少し休んだら、とか、ユタカにそういう言葉をかけてあげるのは楽しい。たぶんそういうふうに労ってもらうためなんだろう。

「ヨリコにいいバイトがあるんだ」
ユタカに揺り起こされて目を覚ました。

 ユタカが帰ってきたのは深夜の二時ごろで、私は、布団の中でニュースを見ているうちに眠ってしまったようだった。眠りに落ちる前に、小学校一年生の女の子が何者かに誘拐されて殺された事件が報道されていた。髪の毛をふたつに結わいた、すこし寂しそうな面持ちのその子の顔はずっと昔に知っていた誰かに似ていると思った。その子の夢を見ていた。夢の中でその子が誰なのか、ずっと思い出そうとしていた。
 

 ユタカはひどく疲れた顔をしていた。ユタカの疲れた顔はすごくかっこいい。少し伸びた無精ひげや、こめかみを指先で押さえる仕草が、すごくこなれている。
 私は寝起きがよく、どんなに深く眠っていてもすぐに覚醒することができる。夜中に何回起こされても、すぐに眠りの世界に戻ることができ、昼間にどんなに眠っても、夜眠れなくなることはない。
 私は何かに弾かれたように目を開けて、布団の上に胡坐をかいた。天井から吊るされている蛍光灯の輪が眩しくて、目の奥に黒い輪が浮かんで消えた。

「いいバイトって?」
 バイトのことより、ユタカの疲れっぷりと、外気で冷え切った手足のほうがずっと魅力的で、すぐに布団に引きずり込みたいと思いながら、ユタカの目の隈のあたりを盗み見る。
「ただ、眠るんだ。ガラス張りのブースみたいなところで」
「へえ、眠るだけのバイトなんて、あるんだ。眠ってる間にへんな薬を打たれたり、眼圧を計られたりとか、そういうやつ?」
「それを言うなら、血圧だろう」
「眠りの実験だったら、眼圧じゃない?」
「よくわかんないけど、たぶん違う。そういう実験みたいなんじゃなくて、つまりその、サービス業っていうか」
「手でしたりすんの?」
「眠ってんのに、手でできるわけないだろ」
 
 ユタカは私の手に惚れている。知り合ったのは、私が毎日眠気をこらえて働いていた個室ビデオ店だった。
 たいした目的もなく短大の教養学部に入学した私は、持ち前の怠惰さから、半年ほどで学校に行くのをやめた。何か特別なことを学んだり、進むべき方向に偏りが生じてしまうのがが嫌で、わざわざ教養学部のある学校を探して受験したのに、やはり学年の最初から選択しなければならないことがたくさんありすぎて、すっかり混乱して学校に行けなくなってしまった。何かを選択することは、選択されなかった何かを切り捨てるのと同じで、その選択されなかった何かにおそろしく申し訳ないことをしている気分になって、いてもたってもいられなくなる。当然のことながら、進級できなかったので退学し、家からも親からも遠いところに行きたいと思って、でたらめに夜行バスに乗り、お金というものをほとんど持っていなかったので、最初にスカウトされたヘルスで働くようになった。生きるために、働かなければならないのは、とても素敵な考えだった。私がそれを選んだわけではないから、職業は何でもよかった。そこでも、誰も、何も、選び取ってしまわないように、世界のすべてに対してえこひいきをしないように、いつも注意深く振舞っていた。
 
 私がヘルスという職場を選択しなかったのと同じように、つき合う男も自分からは選択しなかった。私のことを気に入ってくれる人や、私のことを強く求めてくれる人のところに、転がり込んだ。でも、私の何も選択しない態度がやはり鼻につきだすのか、私にその人を特別なものとして扱うように強要されるようになる。
 そんなふうになってしまうたびに店を替え、住む土地も変えた。ユタカに会ったビデオボックスがいちばん最近の職場だった。
 ユタカは、おっぱい見せろとか、店が終わったらやらせてくれと言ったり、三分ぐらいの残り時間の誤差にクレームをつけない、いいお客だった。三十分が終了したときに、ユタカも私もすごく逃げたい気分になっていて、使いかけのピンク色のローションのボトルをくすねて、店から退散した。それから二ヵ月もの間、私はユタカのアパートで毎日眠りこけている。

「それもそーだよね、ってか、入れられちゃうとか」
「それはねーな。ただ眠るだけなんだって」
 ユタカの言うことにいちいち頷きながら、私はそんな仕事あるわけないじゃん、と思ったけど、どんな仕事であれ労働は尊いと思うし、好きなだけ眠っていい仕事なんて、なかなか見つかるものではない。

「なんかさ、ビール飲みたくない?」
 労働のことを考えていたら、働いてもいないのに、労をねぎらいたくなった。お疲れさま、自分。そういうときはやっぱりビールだ。冷蔵庫にはビールはおろか、食べ物すらなかったので、私はのそりと起き上がって、部屋着のジャージの上にユタカのフリースのジャケットを羽織り、銀色のミュールをつっかけて、アパートを出た。 
 いまどき珍しい赤錆の浮いた鉄製の階段をピンヒールのかかとで派手に叩きながら、何かが足りないと思ってあたりを見回したら、月が出ていないことに気がついた。足りないものや、欠けているもののことがおそろしく気になる。
 
 いつからそんなことをやたらと気になるようになったのだろう。サンダルについたラインストーンがオレンジ色の街灯の光を反射している。本当は銀色ではなくて、淡いグリーンのを買いたかった。でも、好きな色を選んでしまってはいけないと思い、銀色のものにした。銀は、色ではないから。なぜ緑色のものが好きなのかといえば、幼稚園のときに、緑色のクレヨンをなくしたからだ。そのころから、足りないものや欠けているものに、どういうわけか、惹かれた。もう絶対ほかの色を好きになることなんてないのに、身につけるものや、食器、好きな色占いや、そのほかのありとあらゆる、色を選ばなければならない場面で、緑色を選ぶことは注意深く避けている。好きなものや、特別なものに対して、えこひいきをするのがいやなのだ。
 
 街灯に照らされた住宅街を五分ほど歩き、コンビニに入ると、私は迷うことなく、透明な冷蔵庫の扉を開けて、エビスビールを二本取り出す。レジのカウンターにごとりと置くと、バイトらしき男の子が、赤い光を出すスキャナーを、診察でもするみたいに缶の根っこのあたりに当てる。
 
 労働のあとにはビール、ビールはエビス。ユタカの好みは、どんなに瑣末なことでもちゃんと憶えている。ユタカの好きなもの、あるいは誰かの好きなものを選んでよいのは、自分で何かを選択するのが苦手な私には、とても嬉しい。
 
 レジ袋を受け取り、元来た道を歩きながら、もう一度空を見上げた。不在なのがわかっている人に何度も電話をかけるみたいに、月のない夜空は安心して見上げることができる。
 アパートに戻ると、ユタカはいびきをかいて眠っていた。

次回のお話


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