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ショートショート『本日は曇天なり』

午前中にラジオで流れていた天気予報によれば、日中はくもり、夜はなんて言っていたっけ。ところにより、雨?
 
なだらかに話す女性の声の途中から先が思い出せないが、今日の予定は図書館に出かけるだけだ。それほど気にしなくてもいいことだ。

普段、何かにつけて音楽を流さないと落ち着かない私だけれど、今日はイヤホンをせずに図書館に行こう。
玄関のドアを開けて黒のコンバースの左足から外に踏み出した。木曜日の15時、見上げた空は白い。

シフト制の職場で働いてからすっかり曜日の感覚はなくなってしまっているから、日曜日から月曜日までどの曜日も上からプレスしたように統一した雰囲気のままになる。プレミアムフライデーのようなワクワク感もなければ、日曜日夜18時半に始まるサザエさんの放送を眺めながら感じる絶望感も訪れない。


日々の通勤時には音楽がかかせない。音楽を流していると音に集中する分、その他のことに意識がいかなくなる気がする。通勤時には持ってこいだ。何も考えなくていい、ただただそこに流れる大好きな音楽に浸っていればいい。

反対にイヤホンを外せば自然の音や景色を意識的に感じることができる。
スニーカーがテンポよく地面を蹴る音、踏切の音、鳥の声、園児の笑い声。手には赤い風船が握られている。視線を地面に落とすと、私の影の色は少し薄いように感じた。

そのとき、ごう、と強い風が吹き、薄手のワンピースを揺らした。公園で遊んでいた園児の手に握られていた赤い風船が空に舞って行ってしまった。目で風船を追う。

空は白い。白と赤のはっきりとしたコントラスト。雲の流れが早い。
くもり空をイラストで描くときに灰色で塗る場合が多いれけど実際の色は灰色ではなく、白だ。
本日は曇天なり。

「はるこさんが体調悪そうな時には僕すぐわかりますよ」

ふいに先日職場で言われた言葉を思い出す。そうか、私は自分が思っている以上に体調が顔に出てしまうタイプらしい。


「はるこさん、今の体調は天気で言ったらどれになります?」

続く彼のセリフを聞いて、3秒待って口を開いた。

「くもり」

言うと、くもり、と彼も復唱した。そして、ははっと笑った。私も復唱するかのように同じくははっと笑った。

彼とはシフトが重なると一言ふたこと会話をする仲だけれどそこまで深い付き合いではない。今度飲みに行きましょうね、そうですね機会があればとお互いに言い合うくらいの距離感だ。


図書館の自動ドアが開き、カウンターを横切るとこんにちはとメガネの職員に声をかけられたので軽く会釈する。
奥に進むと閲覧用のソファーにおじさんとおじいさんたちが各々に書籍や新聞を広げていた。ツンとする彼ら独特の臭い。

ある本で読んだことがあるのだけれど、図書館というのは書籍が痛まないように必ず窓が北向きに設置されているというのは本当だろうか。
確かにどの図書館も入るとじめっとした空気が流れてくる気がする。

閲覧用ソファーの横を通って右に曲がり、新書のある棚の前に進む。一冊の本「新・腸捻転概論」をそっと取り出して、周囲をサッと見回した。平日昼間の図書館は人通りもまばらであるが、映画のスパイのような動作をすることが癖になっている。

新書をパラパラとめくるとメモ紙が挟んであった。素早くメモを開く。


「名前を知らないあなたへ

こうしてあなたと文通を続けられることを嬉しく思います。

あなたが誰で、どれくらいの年齢で、性別がどちらで等、そう言ったことを抜きにして純粋に本のお話ができることが私にとって密かな楽しみになっています。

また、この間あなたがお勧めをしてくださった本も読ませて頂きました。あまりSFは通ってこなかったのですが、もしかしたらただの食わず嫌いだっただけかもしれません。素晴らしいことに気づかせてくださってありがとうございます。

今日私がお勧めする本は、診療内科の先生である宮内真太郎さんの書かれたショートショート集「トナリの森」です。様々なことで悩む登場人物が、本を読み進めることで悩みが解消していく物語です。じんわりと心が温かくなるストーリーなのでよかったらどうぞ。

お返事はまた気が向いたらで結構です。
それではお元気で。

名前のないものより」

メモの内容を3度読んでから本だけを棚に戻すと、作者名のアイウエオ順で書籍が並んでいる棚まで移動してマ行を目で追った。お目当の本を見つけ、人差し指でそっと本の背をこちらに引いた。
手に取るとまだ誰もページを巡っていないかのように新しく見えた。

「トナリの森」の貸し出しの手続きを行うと、メガネの女性がのんびりとした声で「ありがとうございました」と言い、返却期限の日付を添える。


彼、または彼女との手紙のやりとりは昨年秋頃から始まった。その頃の私は仕事に忙殺されていて、もはや正しいことを考えることも難しい状態だった。

疲労困憊になってわかったことがある。
人間、疲労が蓄積していくと常に身体中の力が入った状態になる。睡眠を多めに取っても疲労が回復せず、健忘症状が出始める。
確実に倒れる直前だとわかっているのに、何故かどう理由をつけて欠勤していいかも分からなくなってしまっていた。

そんなとき回らない頭でふらふらと図書館に出向き、メモに「助けて」とだけ書いて誰も借りないであろう本に挟んで棚に戻した。なぜそんなことをしたのかも今ではよく思い出せない。

1週間後、自分でも馬鹿馬鹿しいことをしたと思い返して図書館のその本を開いてみたら私のメモはなく、別のメモが挟んであった。

「メモを読みました。どなたかは存じ上げませんが、どうか助けが欲しい旨をしかるべき場所に伝えてください。私も同じように自身の危機を感じたことがありました。誰かに助けを求めることが恥だと感じてなかなか言い出せませんでしたが、幸い同僚が声をかけてくれたために最悪の事態は免れました。何の手助けもできず歯痒いですがどうぞご自身を大切に」

まさか返信が来るとは夢にも思わなかった。メモを10回、20回と目で追ってすぐに図書館を飛び出すと、スマホを取り出して勤務先に連絡をした。

体調不良が続いていることと、休養のために1週間の休みが欲しいことを伝えた。電話口の上司はうんうんと頷き、あなたの今までの激務は理解していると言い、ゆっくり休養して回復したら戻ってきてねと言ってくれた。すんなりとことが進んだことに驚きを隠せなかった。

そこから私たちの「文通」が始まった。文通では主に好きな本の紹介をし合うことが多かった。名前や年齢、性別や職業は書かなかった。自分のことを書かなくても手紙でのコミュニケーションは取れるのだから不思議だ。私たちの対面でのコミュニケーションは情報量が多過ぎるのかもしれない。


図書館から自宅への帰り道、職場の同僚の言葉をもう一度思い出す。

「はるこさんが体調悪そうな時には僕すぐわかりますよ」

体調が悪くて今にも倒れそうだったときにはそんなこと言われなかったのにな、と毒づきそうになって打ち消す。

いや違う、あのときは社内全員が疲労困憊で周りの人間の体調を気にする余裕がなかったんだ。そうだそうだと頭をぶんぶん振る。

「はるこさん、今の体調は天気で言ったらどれになります?」

今の私、天気で言ったらどれに当てはまるかな。

しばし考えていると、また風が大きく、ごう、と鳴った。
本日は曇天なり。

だけれども、今の私の天気は少なくとも雨、雪、雹には該当しない。後ろを振り返って自分の影を見ると、先ほどよりはっきりとした黒色をして私の後をついて来ているように感じた。

(了)


#ショートショート #掌編 #小説


学生時代に実際に図書館の本に手紙を挟んで全く知らない人と文通が始めたことがあるんですよ。楽しかったなあ…。

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