王家の宝石 | 7月の誕生石 - バイエルン王家のルビーティアラ
概要
かつてドイツに存在したバイエルン王国に伝わる巨大なティアラ。
現在はミュンヘン・レジデンツ美術館が所蔵している。
名称
Bavarian Ruby and Spinel Parure
(ティアラ、イヤリング、ブレスレット、ネックレスのセット)
起源
バイエルン王ルートヴィヒ1世が、妻テレーゼに贈った
宝飾メーカー
Caspar Rielände
歴史
① テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン
バイエルン国王ルートヴィヒ1世の妻です。
ティアラは2人の結婚から20年ほど後の1830年ごろ作られたものと言われています。
実物の写真がこちら↓
\ドーン/
見た目どおり 非常に重いティアラだったようで、テレーゼ王女はあまりお気に召さなかったようです。
《余談》
夫婦は1810年10月に結婚しましたが、その結婚に際してミュンヘンの城壁前の緑地で競馬が催されました。
このイベントが毎年恒例となり、年々アトラクションやらパレードやらが追加されていきます。
そして現在まで続くこのお祭りこそ、「ミュンヘンのオクトーバーフェスト」。
つまり彼女はオクトーバーフェストの立役者でもあるのですね。
ちなみに会場となっている緑地は、このテレーゼにちなんでテレージエンヴィーゼ(Theresienwiese = テレーゼの緑地)、或いはバイエルン地方の言葉でヴィーズン(Wiesn)と呼ばれているそうです。
②???
この後、ティアラの記録はしばらく有りません。
そこで、ティアラを所有するバイエルン王家はどうなっていたのかを駆け足で見てみましょう。
巨大ティアラを作らせたルートヴィヒ1世は、愛人とのスキャンダルをきっかけに1848年に退位します。
◇
後を継いだのは、長男のマクシミリアン2世。
女にだらしなく不人気だった父とは違い、「キング・マックス(マクシミリアンの愛称)」として親しまれました。
プロイセンの王族であったマリーを妻とし、2人の息子を残して52歳で死去しました。
◇
マクシミリアン2世亡き後は、長男のルートヴィヒが即位します。
ヨーロッパの歴史が好きな方なら「あっ…!」となったのではないでしょうか。
そう、あのルートヴィヒです。
騎士伝説に憧れて 次々に城を建築し、王国の財政を圧迫。
最後には精神病と認定され(諸説あり) 廃位されました。未婚でした。
(同性愛者だったと言われています)
◇
弟がオットー1世として即位しますが(おとうとがおっとう…言いづらい)、こちらも精神病を患っていると診断されます。
叔父やその息子(オットー目線でいとこ)が摂政を務めていました。
彼も未婚のまま、最後は統治能力が無いと判断され廃位されました。
◇
次に、オットーの摂政を務めていた従兄がルートヴィヒ3世として即位します。
なんと彼には13人もの子供が産まれました。
(家系図では大幅に省略)
しかし、国王に即位して間もなく第一次世界大戦が勃発。これの敗戦やドイツ革命によって国内は混乱し、王政は廃止に。
わずか5年で国王の座を失う事になりました。
③ アントニア・ド・リュクサンブール
ルートヴィヒ3世の退位により バイエルン王家は途絶えてしまうのですが、ティアラの話はもう少し続きます。
②で見た通り、途中色々と混乱していたバイエルン王家。
この間ティアラはどこにあったのか不明ですが、最後にこれをかぶったのが 最後の国王ルートヴィヒ3世の息子の妻であり ルクセンブルク大公の娘、アントニアでした。
その時の写真がこちら。
(※noteからだと肝心のティアラが見えないかも…Twitterで見ると、頭まで見られます。ご不便をおかけし申し訳ありません)
アントニアが華奢すぎて、ただでさえ巨大なティアラがますます大きく見えますね…
◇
ちなみにこれは、アントニアと 夫ルイトポルトの挙式前後に撮影された写真と推定されています。
2人が挙式したのは1921年4月。
バイエルン王国が消滅したのは1918年11月。
つまり写真が撮られた時点でバイエルン王国は既に無くなっていたと考えられます。
◇
さて結婚後のアントニアと夫ですが、1935年までに6人の子供に恵まれます。
そして、ドイツを支配していたナチス・ドイツ体制に反対する姿勢を見せます。
夫婦はナチスから逃れる為、6人の子供を連れてイタリアに亡命。
その後アントニアと子供たちだけハンガリーに逃れます。
しかしハンガリーもドイツ軍に占領され、アントニアと子供たちは強制収容所送りになってしまいました。
1945年の終戦後に解放されますが、収容所の過酷な環境により健康が著しく損なわれます。
そして2度とドイツには戻らないと誓いを立て、最後はスイスで亡くなりました。
現在ティアラはミュンヘン・レジデンツ(かつての王宮)内宝物館に展示されているそうです。
◇
既に王国は無くなっていたにも関わらず、豪華な装飾品(しかもよりによって1番重そうな)を着けて写真を撮影したアントニア。
もしかすると、それは王国はなくなっても王族としての誇りは失わないという気持ちの表れだったのかもしれません。
捕まれば命の保証は無い中 反ナチスの姿勢を貫いた姿に、そんな事を考えました。
本日もご覧下さり、ありがとうございました!
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【お知らせ】
ただ今小学生の夏休み中につき、note活動は省エネモードで行っております。
(本記事は辛うじて夏休み前に仕上げたもの)
皆様の記事を拝見するのがゆっくりになってしまいますが、どうぞ宜しくお願い致します。
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参考
トップ画像: unsplash
Luxarazzi
《 101: Bavarian Ruby and Spinel Parure 》
THE COURT JEWELLER
《 PRINCESS ANTONIA’S MAGNIFICENT RUBY AND SPINEL TIARA 》
Wikipedia
《 オクトーバーフェスト 》
《 ルートヴィヒ1世(バイエルン王) 》
《 Maximilian II of Bavaria 》
《 ルートヴィヒ2世 (バイエルン王) 》
《 Otto, King of Bavaria 》
《 ルートヴィヒ3世 (バイエルン王) 》
《 Princess Antonia of Luxembourg 》
年表
《 German occupation of Luxembourg during World War I》
《 ルクセンブルクの歴史 》
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