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テストに出ない世界史 | 外国で即位した君主3人の治世と語学問題

以前書いたこちらの記事に、思いの外反響を頂けた事に気を良くしまして…

今度は王様編を書いてみました。

しかしながら、外国の君主になるという事は、嫁入りよりもずっと複雑な経緯がある訳で。
以前の記事よりだいぶ長くなりました。

(1人ずつ記事を分ければよかった…)

目次を付けますので、興味のある所だけ読んで頂くのもアリだと思います。

ではどうぞ。


1.モラハラ夫 - ジョージ1世(イギリス)

・出身
 ハノーファー(ドイツ)

・選出された経緯
 母方の血筋及び宗教的理由で英国からスカウト

元の呼び名はジョージ(George)のドイツ語読み、ゲオルク(Georg)・ルードヴィヒでした。

ハノーファー(現在のドイツ)を治めていましたが、イングランド議会によって作られた「王位継承法」によって、1714年 54歳の時グレートブリテン王国の国王になります。

王位継承法(1701年): 大雑把に言うと、カトリックに王位を渡したくなかったイングランド議会が「王家の血を引くプロテスタントしか英国王になれない」と決めた法律。


不人気だった英国王

しかしゲオルク改めジョージ1世は英語が話せず、当初大臣たちとはフランス語やラテン語で話していたようです。

英語が話せないわ、しょっちゅうハノーファーに帰るわで英国民からも人気が無かったとか。

まだある問題点

これだけ読むと、54歳でイギリス(当時はグレートブリテン王国)にやって来て、英語ができないからと嫌われるのは少し可哀想な気がします。

しかしこの王様、実は語学の件を除いても癖のある方でして。

渡英前、妻をモラハラで虐め抜き 死ぬまでお城に幽閉していたのです。

1度も英国の地を踏む事はなかったジョージ1世の元妻・ゾフィー
ゾフィーが幽閉されていたアールデン城




そんな経緯から、実の息子とも不仲でした。

新しい王と王太子がこれでは、国民も物申したくなりますよね…。 

語学力に関する補足


一応ジョージ1世の語学力について補足すると

  • 元々フランス語、ラテン語以外にも数ヶ国語を話せた

  • 即位後5〜6年のうちに、実務レベルの英語を身につけていた


という事が、後世の歴史学者ラグンヒルド・ハットンによって言われています。

治世初期はフランス語に翻訳されていた書類も、年を追うごとに翻訳されたものは見られなくなったとか。



「英語が出来なかった王様」という評価は見直されつつありますが、それ以外の部分で国民から悪評を買っても仕方ない部分はあったようですね。


2.プロイセンLOVE - ピョートル3世(ロシア)

・出身
 キール(ドイツ)

・選出された経緯
 ロシア女帝の叔母からのスカウト


ホルシュタイン公国(現在はドイツの一部)の都市キール生まれ。
元々の呼び名はカール・ペーター(Peter)・ウルリヒでした。

子供の頃両親を相次いで亡くし、叔母で後継ぎがいなかったロシア女帝の養子に。
名前をロシア語読みのピョートル(Пётр )に改めます。

ピョートルの叔母、エリザヴェータ皇帝
叔母エリザヴェータに連れられてロシアへ


ロシア語嫌いのツァーリ(ロシア皇帝)

ところで、ペーター改めピョートルは、戦争が強いプロイセン王国フリードリヒ2世の大ファン
彼に強く心酔し、ロシア語を勉強する気が全くありませんでした。

プロイセンのフリードリヒ2世



のちに同じドイツ語話者の妻を迎えますが、妻は懸命にロシア語を学びました。
…どちらがロシア国民から支持されるかは明らかですね。

ピョートル3世妻・エカチェリーナ


戦争でしくじる


やがて叔母が亡くなりピョートル3世として即位。

当時ロシアは七年戦争の真っ最中だったのですが、この時ピョートル3世は盛大なやらかしをしてしまいます。



戦争の中でロシアは(ピョートルが大好きな)プロイセンと領土争いをしていました。

しかしピョートル3世は自分が即位した途端、フリードリヒ2世率いるプロイセンと仲直り
ロシア兵が血と汗を流して勝ち取った領土を無償で返してしまいます

当然国内から猛反発を喰らい、妻が起こしたクーデターにより逮捕。幽閉先で死亡しました。

公式には"痔によって死亡"と発表されました

そしてロマノフ家では、未来永劫ピョートルという名前は使われませんでした。



さてピョートル亡き後は、妻がエカチェリーナ2世として皇帝の座に。
彼女はその功績から、ロシア帝国史上3人しかいない「大帝」と呼ばれた1人となるのでした。

功績もあった

これだけだとただのダメ皇帝ですが、実はピョートル3世、国内の改革をかなり頑張っていました。

ロシア初の国営銀行を創設したり、権力者による農奴の殺害を禁止すると言った民主的な一面もありました。

ただプロイセンにかぶれすぎたのと、不仲の奥さんがやり手だったのが災いしちゃいましたね…


3.ナポレオンのライバル - カール14世ヨハン(スウェーデン)

・出身
 フランス

・選出された経緯
 スウェーデンからのスカウト

元の名はジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット。
何故スウェーデンでは名前がカールなのかという点は後述します。

法律の勉強をやめ軍隊へ


1763年、南フランスの法律家の家に生まれました。
17歳の時父が亡くなり家計が苦しくなった為、軍隊に入ります。

ベルナドットの生家


軍隊では出世を重ね、6歳下のナポレオンのライバルと目されるようになりました。


ただ2人はタイプが異なり、
ナポレオンは扇動的で猪突猛進タイプ。
一方のベルナドットは穏健的で思慮深いタイプでした。

王国軍時代のベルナドット


スウェーデンとの出会い

ナポレオンは快進撃を続けてフランス皇帝に即位。更に全ヨーロッパを支配下に置くことを目指します。


一方のベルナドットは、ナポレオンのもと元帥に昇格。
1806年、プロイセン軍の討伐を命じられてリューベックに入ります。

(↑リューベックの場所。デンマークやスウェーデンが目と鼻の先にある点に注目です。現在でも北欧へのフェリーが運航しています)


その際 プロイセンの援軍だったスウェーデン軍を捕虜としたのをきっかけに、スカンジナビア情勢に興味を持ちます。

また捕虜のスウェーデン側は、フランス元帥の丁重で人道的な対応に感銘を受けました。

リューベックの戦い


スウェーデン国王にスカウト

のちにスウェーデンの一部の軍人の中でこんな声が上がり始めます。

「ベルナドット様を我らが国王にしよう」

…どういう事かと言うと、この頃のスウェーデン国王に後継者がおらず、王室存続の危機に瀕していたのです。

当時のフランスは、ナポレオンを筆頭にヨーロッパ中を支配しようと相変わらずイケイケ状態。

そんな中、スウェーデンは ベルナドットの取りなしにより、フランスからの侵攻を免れます。

以前リューベックで ベルナドットがスウェーデン軍捕虜を丁重に扱っていた事もあって、彼はスウェーデンから一目置かれていたのでした。

ベルナドットには一人息子がいたので、後継者に困らなかったのも都合が良かったようです

そんな訳で浮上したベルナドット待望論。
勿論ベルナドットも皇帝ナポレオンもオファーをされた時は戸惑います。

はっきり対応できずにいる間に、スウェーデン国王と議会は満場一致ベルナドットの王位継承を承認するのでした。


ベルナドットは覚悟を決めます。

ナポレオンと

ナ「あっちに行ってもフランスに逆らうなよ」
ベ「それは無理」

とすったもんだありつつ、半ばヤケクソで追い出される形で スウェーデンへと出立したのでした。
47歳の時のことでした。

スウェーデン・ヘルシンボリに到着したベルナドット

人気の限界

スウェーデンでは、当時の国王だったカール13世の養子として「カール・ヨハン」の名を与えられます。
(1818年国王に即位してからはカール14世ヨハン)

当時の緊迫したヨーロッパ情勢の中で、ベルナドット改めカールは ナポレオンの圧力に屈する事なく、スウェーデンの利益を最優先に、無駄な血を流す事の無いよう政策を進めました。

しかしそんな彼にも弱点が…


スウェーデン語が出来なかったのです。

初めは何とか勉強しようとしたらしいですが、Wikipediaによると途中でやる気を無くしたとか。
(若くしてスウェーデンに渡った息子は言葉を習得したらしく、彼に頼る面もあったようです)


膨大な書類を全てフランス語に翻訳させ、複雑な政治用語が理解できない為保守的な態度になり、それが次第に国民からの反感を買うようになってしまいました。

スウェーデンに残した足跡

しかしながら インフラ整備や経済・教育改革などでスウェーデンを立て直し、現在まで続く国際社会の中での中立主義を作り上げるなどの功績も残しました。

《追記》
2022年5月、ロシアのウクライナ侵攻をきっかけにスウェーデンは中立政策の方向性を転換、NATOへの加盟を申請。
2024年3月、NATOに加盟しました。

また現在のスウェーデン王室は彼の子孫です。
(ロイヤルファミリーがお好きな方はピンと来たかもしれませんが、現スウェーデン王室の「ベルナドッテ王朝」は彼の名前から来ています)

カール14世とその家族。
(大人)左から妻デジレ、息子妻ユセフィナ、息子オスカル1世、カール14世。そして孫たち


Wikipediaには、現在の国王・カール16世グスタフが 国内の移民問題に関して「私も移民の子孫です」と発言した話が載っています。

◆まとめ

今回は、外国の君主として語学の習得に苦労した王様3人にフォーカスしてみました。

ひとくちに「外国の王様になった」と言っても、やはり言語は大きな壁になる様ですね。

ここで、Wikipediaから拾ってきたインド・ヨーロッパ語族の大まかな分布図を見てみます。

Hayden120 • CC BY-SA 3.0 Wikimedia Commons

1.のジョージ1世はドイツ→イギリスと赤い国(ゲルマン語)内での移動だったせいか 何とか言葉を身につけた様ですが、



2. ピョートル3世 はドイツ(赤・ゲルマン語)→ロシア(緑・バルト、スラヴ語)への移動、



3. カール14世 はフランス(黄土色・イタリック語、ロマンス語)→スウェーデン(赤・ゲルマン語)と異なる語族の国でした。

言語の習得にはさぞかし苦労したと想像されます。

何となく、文字が同じだから、同じ大陸の中だから、或いは火事場の馬鹿力的にどうにかなるんじゃないかと勝手に思っていましたが…

外国に行っただけで言葉を覚えられる訳ではなし、しかも王様と言えど「オレ外国から来たし」と開き直って言葉を覚えないとあっては、周囲からの支持を得るのは難しいものなのですね。

長い記事にお付き合い下さり、ありがとうございました!


参考

カバー画像: unsplash
etymax TRANSLATIONS
The History of Parliament

怖い歴史ライブラリー
世にも奇妙な歴史ライブラリー

ferryscan.com


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