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死装束はウェディングドレス。オランダ王妃ゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク


6月です。6月と言えば、ジューンブライド。

今回はウェディングドレスを着せて埋葬するべしという風変わりな遺言をのこしたオランダ王妃の話です。
1話完結です。






王妃の名前はゾフィー。
1818年6月17日、現在のドイツはバーデン=ヴュルテンベルク州、シュトゥットガルトで生まれました。

ゾフィーが生まれた
ルートヴィヒスブルク宮殿。
Alexander Johmann • CC BY-SA 2.0


かつてこの地に存在していたヴュルテンベルク王国の王女として誕生。
誕生後間もなく母と死別し、彼女の教育はヴュルテンベルク王である父の意向に沿って行われました。

ゾフィー父


父は進歩的な考えの持ち主で、女性の社会進出がまだ進んでいなかったこの時代に 歴史、地理、文学などを学ばせます。

ゾフィーは父と政治について話をしたり、国書の翻訳をすることもあったようです。

またリベラルな父の影響で、絶対王政ではなく民主主義を支持していました。



しかしそんな彼女が21歳で嫁入りしたのは、現在まで続く王室を持つ国、オランダでした。

オランダ王国の紋章



ゾフィーのもとには、当時オスマン帝国から独立したばかりのギリシャ王国からも結婚の申し込みがあったそうなのですが、進歩的なはずの父、この時は「新興国すぎて信頼できん」とノーを出したとか。

(あれですかね、古くさい慣習にとらわれたくないと思いつつ、自分の子にはベンチャー企業よりもお堅い有名企業に就職して欲しい、みたいな心境だったんですかね…)

矛盾したゾフィー父

そんな訳でオランダに嫁入りしたゾフィー。
せっかく身につけた学問を活かす場所が全くなく、また夫や姑とも関係が良くありませんでした。

若い頃のゾフィー
左: 夫ウィレム / 右: 姑アンナ
ハーグにある、結婚当初住んでいた家。
Pvt pauline • CC BY-SA 3.0


彼女はバイロンの詩を引用して、自身の境遇をこう嘆きます。

一草一木の青もない心の沙漠
使はない感情の荒蕪地こうぶち

The leafless desert of the mind, 
The waste of feelings unemployed.
不信者(原題: The Giaour)
バイロン ジョージ・ゴードン
小日向定次郎訳

(文語体の翻訳しか見つけられず難しい表現になってしまいましたが、要するに"つまらなくて仕方がない"ということです)



そんな訳で、家庭に安らぎを見出せなかったゾフィー。
彼女は、家族よりも教養ある他人との親交を深めます。

中でも特に仲良しだったのが、在蘭イギリス外交官の妻・マレット夫人。

マレット夫人



2人の友情は生涯にわたって続き、沢山の書簡を交わします。


その中で、ゾフィーは自身の親族から外国の君主まで幅広い人達を辛口で批評していました。
どんな内容だったのか、ちょっと覗いてみましょう。
(翻訳に自信がないので、間違いが有ればご教示頂けるとありがたいです)

王室ご意見番ゾフィー

まずは、夫の妹であるソフィー(同名でややこしいですね)について。

ソフィー・ファン・オラニエ=ナッサウ
本当に◯゙ス
perfectly hideous
近寄れないほど臭い
with such a smell you cannot come near her. 


お次は、姑アンナに対する評価。

アンナ・パヴロヴナ
この女の裏切りや意地の悪さは信じられない
the treachery and viciousness of this woman is not to be believed.

↑これは、先代国王(ゾフィーの舅)が亡くなった際、ゾフィーの女官を 姑アンナの息が掛かった人達に変えられそうになりブチ切れた時の話です。



親戚にあたるナポレオン3世の妃・ウジェニーに対してはこんな感じ。

ゾフィーの叔母は、ナポレオンの末弟の後妻。
つまり彼女はナポレオンの親戚です
ウジェニー・ド・モンティジョ
軽薄で、子供っぽくて、真の威厳というものがない
She is frivolous, childish, without any real dignity.


そして、親交があったというヴィクトリア女王にはこう

ヴィクトリア女王
女王は大したことない 女性ひと
(中略)本当に彼女を好きだった人なんて聞いたことがない。
The Queen is a little woman, …I never knew anyone who really loved her.
翻訳は筆者。
原文の引用元: すべて
A Dutch Queen’s Epistolary Smackdowns


夫・ゴリラ王ウィレム

ここまで来ると、夫婦仲が上手くいかなかったのはゾフィーの性格の問題ではと思ってしまいますね。

しかし、夫のウィレムも相当曲者だったようです。

例えば、大臣はウィレムに何か署名を貰いたい時、ペンを2本持って行く必要がありました。
何故なら、彼は短気のあまり怒りに任せてペンを投げ捨ててしまうからです。

その短気な性格から、国民からは「ゴリラ王(Koning Gorilla)」と呼ばれていたとか。

社会主義雑誌を元に作られた、
ウィレムを揶揄するパンフレット
「ゴリラ王の生涯から」




一説によると、ゴリラ王の気の短さは、祖父であるロシア皇帝・パーヴェル1世から遺伝したのではと言われています。

暴君と名高いパーヴェル1世


実はこのパーヴェル1世、ゾフィーの祖父でもあります。

2人は母方のいとこ同士



2人とも、祖父から同じ気質を受け継いだのかもしれませんね。

遺言の怪

ゾフィーは1877年、59歳で亡くなります。

かねてより結婚生活について「地獄だ」「死んでしまいたい」と語っていたゾフィー。

冒頭で述べた通り、「ウェディングドレス姿で埋葬するように」という遺言を残し、この世を去りました。

52歳ごろのゾフィー



もう理由は大体想像できると思いますが、自分の人生は結婚式の日に終わっていたのである─そう主張するための姿だったのですね。

(実際にウェディングドレスを着たご遺体の写真はこちら)

その後のオランダ

ゴリラ王こと夫ウィレムはこの12年後に死去。
そしてオランダは3代123年にわたって女王が治める国となります。

字数が多くなってきたので 詳細は割愛しますが、ゾフィーが産んだ子は全員若くして亡くなった為、夫ウィレムの後妻が産んだ子とその子孫がオランダ王室を継承しています

今でこそ安楽死や大麻、同性婚の容認など何かとリベラルなイメージがある国ですが、ゾフィーは少し生まれてくるのが早かったのかもしれませんね。

ゾフィーの慈善活動

ここで終わってしまうと、ゾフィー=ただの嫌味なキャラになってしまいますが、実は数々の慈善活動を行っていました。

例えば動物愛護協会フェミニスト団体小児病院の設立に携わりましたが、これらは全て「オランダ初」のものだったそう。

彼女がいかに先見の明を持ち、また弱者に寄り添う心を持っていたかが見てとれると思いませんか?

↓ゾフィーが携わった↓
動物愛護協会
フェミニスト団体
小児病院

歯に衣着せぬ物言いで最初はとっつきにくいけど、仲良くなると頼もしい職場のおばちゃん、みたいなイメージかな?と勝手に想像しました。


本日もご覧頂き、ありがとうございました!

関連記事

ゾフィー夫が後妻に贈ったジュエリーの話です。
41歳下の後妻とは上手くやっていたようですね。


参考

トップ画像: Wikimedia Commons

Wikipedia
《 Sophie of Württemberg 》
《 Sophie van Württemberg 》
《 ギリシャ王国 》

medium.com
《 A Dutch Queen’s Epistolary Smackdowns 》

abebooks
《 A Stranger in the Hague: The Letters of Queen Sophie of the Netherlands to Lady Malet, 1842–1877 》

HISTORIEK
《 Willem III – Koning der Nederlanden 》
《 Willem III: ‘Koning Gorilla’ 》

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