見出し画像

改名でもすっか。

僕には、五十川 雄貴なんて名前があるのだけれど、この雄貴という何とも大袈裟な名前があまり好きではない。そもそも親のセンスでしかないのであって、親のセンスをひけらかすのも何だか気恥ずかしい。「男らしく逞しく」そんな由来なのだろうが、僕にはそんなところがあんまりない気がするのだ。逆さまに女々しくて、弱々しいの方がまだ幾許かしっくりくる。別に女性が弱いもんだとか言っている訳ではないのだが、完全に名前に負けているというのか、馴染んでいない感じが自分の中でいつも生乾きに似た嫌な臭いを漂わせる。そんなことを親と話したことだってある。もっとテキトーな名前が欲しい。
大学院の頃の同期にも「雄貴らしくはねぇな。もっとチルだよ。話し方というか声なんかが特にね。」とか言われたことがある。日本人だとこういう微妙にセンシティブなことにはあまり口を挟む人はいないけれど、その台湾の友人はそんなことを言ってくれた。

何か活動する上でつけたUKIYOという名前も、憂世と浮世の同じ音での意味の反転性が面白くて付けた名前であったがその軸となる世というものには何も期待していないというのか、自分の中であまり馴染みがない概念だなと、雄貴という名前と同じく何ともしっくりきていない感じがあった。でも躁鬱人らしく国なのか集落なのか、もっと小さなコミュニティ(こういうと胡散臭すぎて嫌なのだけれど他にいい言葉が浮かばない)は作りたいとか思ってはいるのだけれど。

さて、どんな名前がいいだろう。

よくテレビで芥川賞、直木賞とか聞くじゃない。その直木賞ってのは直木三十五という小説家から来ている。彼が31歳の時、彼の名前は直木三十一だったそうな。年齢がそのまま名前になる。そんなテキトーさがなんかいいなって思った。
が、僕は別に自分の年齢というものに興味がないし、今何歳なのかも大学を卒業したあたりから分からなくなった。昔は学年と年齢が一致していたのだけれど、鬱で留年しているし、何年か空白期間もある。ニートもしていたしで世間一般の定規と完全にずれたあたりからまるで年齢が分からなくなった。年齢を名前にするという線は無しかな。でも数字やその記号的なカタチには何だか惹かれるところがある。

吉阪隆正というコルビュジェの弟子にあたる日本人建築家がいるのだけれど、その特徴的なあご髭がどうも僕に重なるところがあるらしく、「似てるよね。」なんて言われたもんだから興味を持ってしまい、色々本を買って読んでみたことがある。

これとかね。なんか値段が跳ね上がっていて早めに買っておいてよかったなと思う。
彼の自邸は建築としてはとても下手くそだなって僕でも思うようなものなのだけれど、それがめちゃくちゃいいなって思ったんだった。建築家の話ってどれも面白くねぇんだよなぁってそれこそ大学生の頃には思っていたところがあって、なんか大人がうだうだ言ってるわってくらいにしか思っていなかったのだけれど、彼の言葉は不思議と僕に浸透してきた。海外の人にだって心の中で「好きだ、好きだ」と唱えれば伝わるものです。とか書いてあったっけな。何言ってんだよって思ってしまえばそれまでだが、何か信じてみたくなる不思議なテキストだった。そんな言葉を持っている建築家に出会えたのは僕にとってはとても貴重なことだった。その吉阪隆正の右腕とでもいうのか、パートナーというのかに大竹十一という人がいる。彼のことを僕はあまりよく知らないのだけれどその名前のインパクトというかシルエットにとても惹かれた。

僕は4月11日生まれだ。太陽暦というものは古代エジプトで考案されたものらしく、太陽と地球の関係性に関わる周期が基準になったものだから、きっと頑張れば僕でも感じ取れるものだと思う。そういうものならば信じてもいいかって感じがする。年度の頭の十一日生まれ。だから十一。直木三十五に近づいてきた。五十川十一。何ともバカみたいな画数の少なさ。小学1年生でも全部書ける。読めないけれど。今時は幼稚園児だって書けるかもしれない。これはいいなって思った。

十一と漢字で書くとプラスとマイナスみたいだ。僕は躁鬱持ちだからこうした二面性というのか振れ幅というのかがそのまま名前になるというのはとてもしっくりくる感じがする。
縦に十一と書けばそれは士になる。雄貴という文脈を引き継ぎつつ、より日本人的な感じがしてくる。おぉジャパニーズサムライ!!くらいなノリ。そう言えば髪型や服装のせいでサムライなんて言われることもあったかしら。今の時代にサムライなんて言っている時代遅れ感もかなりいい線行っている感じもする。あれ、結局雄貴って名前好きなのか!?うーん。まぁ何でもいいか。うん。
士というよりは土じゃね?って?それもいいねぇ!花の生産者は花ではなく土の話ばかりするっていうじゃない?土を食べると何だかハイになるとか聞いたこともある。いい土壌になれるといいなぁ。種はあなただ。あなたがのびのびと育つ土になりたい。
角度を変えると+1になる。1を考えると2になり、2を考えると3になる。そんな風にして次元を一個上げられるような自由な視点を持ちたいものだ。関わる人に何かしらプラスになることがあるといいなとは心のどこかでいつも思ってしまうものだ。ロゴを作ってくださいと言われれば+1でアニメーションまで付けたってまぁいいじゃんね。サービスサービス。

十一。いいやん。これにしよう。思い立ったらやってしまうのが僕だ。今日からの僕の活動全てを十一としよう。
平岡公威が三島由紀夫を、津島修治が太宰治を名乗ったように、僕のペンネームは五十川十一だ。一旦。苗字は考え中。三五八ってなフィボナッチ数列的な名字もいいなと思ったけれどカタチは五十川が何やかんや気に入ってしまっているところがある。十川でもいいが、五という漢字は上下の横棒がそれぞれ天と地。その間にあるのが火、水、木、土、金といった元素的な意味があって僕はこれを用いて錬金術的なことをしてみたいと思うところがあるからなぁと思ったり。アルケミスト、アルキミスト、アルキテクト、アーキテクトってな具合。錬金術師であり建築家なのだ!
十はなんかカタチが好き。針の象形でもあるらしい。何かをブスッと刺していく。僕と関わると基準がブレるような親戚の変なおじさん的存在になりたい。尖っていないと刺さらない。これは忘れてはいけない。完全って意味もあるにはある。だけど十ではなくて十二が本当は望ましい。そういった余剰がないという意味においての十という切羽詰まった不完全さは愛おしい。
川は僕の好きな随筆「方丈記」の一番最初に出てくるモチーフだしなぁ。無常。お前ら大丈夫か?って危機感を常に持っていよう。全く大丈夫じゃねぇよな笑笑

人にロゴなんて何でもいいじゃない!ネーミング全然馴染んでへんで!変えようぜ!とかって言ってきたのだしまずは僕がやってしまおうと思った。ロゴというのはロゴタイプの短縮形。ロゴタイプはLogosとTyposの組み合わせ。ロゴスは言葉・論理、タイポスは型・スタイル。論理の型。かたいよな。それじゃ。

ただ単に言葉だの論理としてしまうと何ともつまらないもののように感じてしまう。言葉なんてなくても子ども同士は仲良くなれるじゃない。西加奈子のサラバ!でもそんな描写ってなかったっけ?違う本だったか?
僕はカフェでバイトもしているんだけど、お客さんの声一つで癒されることもあれば、何とも嫌な感じがすることもある。僕はクズだからいいなぁって思った声のお客さんには優しくできるし、呼ばれればすぐにでも飛んでいく。その反面嫌やなぁってお客さんには呼ばれてもオーダーを取りに行くのすら正直躊躇われる。誰かオーダーとりに行って!とか思っている。
他にも女の子と話していると最初は壁のある声だったのがだんだんとその壁がじんわりと溶けてきて、声が変わるのを感じ取れることもある。言葉よりも声、音楽的なる感覚で捉えてみると面白いのかもしれない。
音楽で言うとバ先のカフェではBGMが流れていて、たまに子どもがそれに身を任せて踊っていたりする。僕もその子の真似して一緒に踊っていたら、帰りに僕を探してハイタッチでもして「バイバーイ!またねー!」と挨拶までしてくれた。言葉はあると便利だけれど、なくてもいいのかもしれない。それとも、もっと広範に身体を使った表現だって言葉ではないのかもしれないが、ボディランゲージなんていうくらいで言語ではあるわけだから、それくらい広く言葉を捉えたいかな。

そうするとロゴというものも表現なのであろう。
言葉でも、声でも、音楽でも、カタチでも何でもいいのだけれど、筋肉を動かして何かを外に出す。それに共鳴する人が現れる。僕と子どもが互いに分かり合えたように。この共犯関係を築く方法全般をブランディングとでも言うとかなりしっくりくる。そのための設計図がロゴなのだろう。

だからこそ、ロゴは自分たちの思った通りに声を出したり、身体を動かしたりするように、チグハグにでも自分たちの手で構築できなければいけない。
ロゴというとすぐにカタチの話をしたがるが、そうじゃない。ロゴ(アティチュード)を自立して運営しないなんてマジで頭おかしいじゃない!?と言い続けているのに全然伝わらない笑 なんで?どうして?
楽しかったら笑うでしょ?楽しい時に、誰がわざわざ人に頼んでその人の笑顔の絵でも書いてもらってそれをiPadにでも映して、私今こんな感じ!とか言ってるわけ??キモすぎるだろ。僕らはこんな人たちやで!ってのは自分たちで示そうよ。ねぇ??
個人の方だったらそれがそのままあなたなのだから、あなたがロゴを作るのがいいに決まっている。組織なのだとしたら誰でも作れるような、誰でも何かしらの素材を用いれば組み立て可能なカタチを作ろうってそれだけの話。それをベースにして色々組み替えて自分なりの表現を作ればいい。顔という筋肉の集合体を嬉しかったら笑顔として、悲しかったら下を向いて涙を流す。そんな風にしてロゴというシステムを顔の筋肉のごとく動かし続ければ自ずと誰かに伝わるはずなんだけどなぁ。
自分らの態度やテキストを自分らで表現し得ないカタチでは僕からするとロゴとは呼べない。だから僕の周りにはロゴをデザインしている人が悉くいない。だけれども、僕に依頼してくれた人たちは割とロゴを使って自分たちで色々遊んでくれている。これはその人たちなりの言語に実際になっているわけで、表現になっている。ワードではなくテキストというのかもっと広範にランゲージというのか。よく分かんないんだけどさ。何かそんなイメージがあるのよね。
そんな風にしてカタチというものを用いたコミュニケーションそのものが僕の中ではロゴというものだから、クライアントが自分たちで利活用出来ないようなおしゃれなロゴというものは断じてロゴではない。
何度も言うけれど、表現として自立してしまう仕組みを作ることに意識的な人のことを少なくてもロゴデザイナーと呼びたい。


五十川十一即席テープロゴ

これならテープ貼るでも、単管パイプを組むでも、アクリル切るでも、コンクリート流し込むでも、土を固めるでも、木を組むでも、最悪自分たちで作ればいいやって思えるじゃない?そうすると、それを業者に頼む上でもいい作用がある。だって業者がそれを出来ないといった瞬間にかなりしょぼい奴だって判断できるじゃないの。こんなの汚くていいなら僕でも出来ることをプロがああだこうだと出来ない理由を探すのであれば、そいつがおかしい。プロではない。
ロゴで難しいことをしてしまうとどうしても自分は素人だから、、って控えめになりがちなところ、僕たちにかかればプロかどうかの判断も瞬時に出来る。プロならよりよい方法を提案してくれるからだ。それをしてこない人には仕事を頼まない。そんな風にしてロゴを基準に判断も出来る。

この前ネットでビンテージのメガネ買って、その度数が合わないから近所の眼鏡屋に持って行ったんよ。で、「レンズ交換して欲しいんだけど!」って言ったら、「うちの商品じゃないから出来ない」ってだけ言われたことがあった。
お前ら"メガネ屋"なんじゃねぇの??眼鏡屋を名乗っておいて、何一つ提案できない姿にかなり失望して、そこにはもう絶対行かねぇって決めちゃった。
その辺のアルバイトでも「ここでは出来ないけれど、あそこ行ったら出来るかも!社員には秘密ね!」とかってこっそり何かしら提案できるじゃないの。「ウチではやってないんですよ、、でも、やりようはあると思うんで、試せることを試していきましょうか!」とかさ、何か言えよなって思うでしょ。それを社員がしてねぇのな。思えば何も考えることもなく大学に行って遊び呆けた挙句、みんな就職しているし僕もそうしよー!ってな感じで就職するような奴が働いている場所なんだった。期待してしまった僕が悪かった。
そもそもそんな奴は大学選びだって大きく間違えているのだ。今ならきっとその大学にどんな先生がいて、どんなものを作っていて、どんな本を書いていて、そのどこが面白くて、共感できて、何を学びたいかとかって色々調べるのが普通だろって思うんだけど、そんな普通が僕も高校生の頃できなかったなぁって反省までしてしまった。あの眼鏡屋のジジイめ!
大学にいけ!高校の名が廃れないように出来るだけ高偏差値の大学がいい!お前が何をしたいか?そんなの関係ない!大学にいけ!ってのが高校だ。
将来何したい?それをやっている先人はいるの?その人は生きているの?生きているならどこにいるの?あ!どこどこ大学にいるやん!とか、亡くなってるか、、その人に弟子はいなかったの?あ!〜県と〜県に一人ずついるっぽい!そのうち一人は大学で先生やってるわ!ってな具合に大学を決めようかって提案してくれた先生なんていなかった。だから高校の先生だって僕は軽蔑している。大人のくせにそんな方法も知らないんだった。先生というものはそもそも自分を自分で救ってきた方法を教えるものだろう。でないと先に生まれた"だけ"の人で終わる。何故か自分たちを苦しめた方法を押し付ける存在に成り下がっている。何に憧れてそうなったんだろうか。誰がそれで救われるのか?
大学なら何なら入試だって受けなくたって、面白いと思った人のところに何かしらメールだのDMだのすれば研究室には入れてくれるだろう。それは舐めすぎか??でも自分のところに高校生からそんな連絡があったらきっと嬉しくてその高校生の名前くらいは覚えちゃう気がするんだよなぁ。入試にそいつの名前があったら、テストの点数なんて関係なく入れるんじゃね?これも舐めすぎか?
でも偏差値で判断するより、誰に学びたいかって方がよっぽどいいと思うんだけどなぁ。

話が大幅にズレた。が、世の中はおかしな人だらけだ。それなのにまともやで?って言っている人は本当に頭のおかしいやつか、大天才かのどちらかなのだろう。僕たちの身近にはもうChatGPTという秀才が常に居てくれる。僕は彼の書く文章をとてもつまらない、質感のないものに感じるが、そのような秀才気質の人であればChatGPTに置き換えられて当然だろう。だからもっと極端におかしな方向に発酵していく他ないような感じがする。常識という偏った意見の集積はAIに任せて、おかしなことばかり人間はしていればいいのだろう。
つい最近、天下の奇祭裸祭りとかいってテレビでやっているのをサウナで見ていた。ああいうのが今もまだ残っているのはとてもいいなって思った。下手したら死人が出るような状況は人が生き生きとした目で、存在出来る。正直羨ましかった。その反面で初の女性参加みたいな文脈もあったが、そちらに対しては僕はあまりいい印象を覚えなかった。何というかその迫力に欠ける部分が見ていられなかった。むず痒い感じがしちゃったかな。正直ね。別に女性蔑視とかそういう話ではなくて、単純に祭りの質が落ちて僕には見えた。狂気を感じられなかった。
祭りにコンプラだの何だのって言っていろんな制限を設けてしまっているのはどうも僕にはアホくさいものに見える。これは何故なのだろうか。そんな興味も湧いてきた。あんなにキラキラした人間が見られるのは祭りくらいなものなのに、どうしてそれを制限したいと思うのだろう?僕みたいにその姿に嫉妬しているのか?そうじゃない気がする。もっと暗く奇妙な目でそれを見ている感じがする。祭りで死人が出るなんておかしい!まぁそうかもしれないねぇ。じゃあ今あなた方が望むような世界になりつつある中で自殺者がいるって現実はどう捉えたらいいのか僕にはまるで分からないんだった。僕だって孤独死しかけた過去がある。祭りで華々しく死ぬのか、小さなアパートの一室で誰にも見つからず独りで腐っていくのか。当事者にしたってどっちがいい?って一目瞭然だろうに。こんなこと比べること自体おかしなことなのかもしれないが。これをどうにかしたいとは思わないのだろうか?人間これ以上目が死んでしまったら、美しいものを美しいものとして捉えることすら出来なくなってしまわないか?僕はそっちの方が怖い。
もっと変なことしようぜ。

そう考えると僕がロゴを提供するという方法それ自体は何とも真面目で気持ちが悪いもののようにも感じる。ロゴを納品する↔︎6万円頂戴!がセットになっている。
別にお金で返してもらう必要はないのだろう。そもそも僕に話をくれて、面白い話をしてくれるだけでもしかしたらその対価として十分なことだってあるはずなんだ。面白いプロジェクトにであれば僕は喜んで参加したいわけで、別に無料でもやるよなって思った。
例えば僕は男だけどワンピースを着たい。服を作るデザイナーが僕に依頼してくれれば僕がロゴを作る。僕用のワンピースを作ってくれればそれを交換しよ!ってことでもいい。めちゃくちゃ愛用するよ!それが気に入ったら他にも絶対服買っちゃうよね!用がなくても店に遊びに行っちゃうよね!一緒に煙草でも吸おや!飯でもいこ!
飲食のお店を出店する。だけど今はお金がない。だからお店ができたら五十川さんにはいつでもご馳走しますんで!ロゴ作ってくんない??ってな面白い提案をしてきてくれれば僕は喜んで作るじゃん。そしたらさ、僕はご飯に困らないわけだ。生きていける!お金は介入していないのにだ。最高じゃないか!

前に僕にDMをくれたけれど、予算的に厳しいって他の方に頼んでロゴを作った方がいた。そのロゴがまぁひどくて。例えるなら建設会社だからトンカチ!とか言った具合に実にしょうもないロゴだった。クライアントの話を聞いていたら絶対にそんな提案はしないはずだ。話を聞いていておもしろ!って思うことは絶対にあるのだから、それを丁寧に掬い取ってカタチにする。例えばそのブランドの名前がミョルニルとかだったら、なるほど神話がベースなのね!と調べていくうちになるほど、トールが持っているあのハンマーってそんな名前だったのね!じゃあそれを形にしちゃおうかという話になるのであって、建設といったら建物、建物と言ったらものづくり、ものづくりと言ったらトンカチとか言って連想ゲームを始めるバカに仕事を譲ってしまった。クライアントの中でトンカチに何か特別な意味があるのか??他にもっと大切なものがなかったのか?作っている空間を差し置いてトンカチという表現が効果的であるのか?疑問が止まらないなんてことが往々にして起こる。僕は本当に悪いことしたなぁってずっと後悔している。後味が極めて悪い。
それなら、お金は今払える分だけは先に払ってもらって、事業が成功してから残りを払ってくれればいいわけだし、お金のやり取りでなくても、僕が鬱の時に助けてくれればもう最高なわけで、話を聞いてやりたいことが面白かったら無料でだっていいんだからさ!せっかく出会えたんだしとりあえず話を聞かせてくれない?ってやっていればよかったなぁってずっと後悔している。あんなクソみたいなロゴを作らなくて済んだはずなんだ。絶対に。

ちょっとロゴデザインの仕事の受け方を変えてみる。こいつ面白い!って思ってくれたんやったらロゴを一緒に作ろう!それが僕に伝わる面白い提案をしてきてほしい。だけどロゴに関しては「ダメ」とは絶対に言わないことだけ約束してほしい。最高!かしっかりとした指摘かのどっちかにしてほしい。
面白くも何ともないどっかの企業のただの担当者から話が来たらちゃっかり10万円をしかも前払いでお願いしよう笑 その差額の4万円で誰かをロゴデザインという方法で救うことができるかもしれないと思うようになってきた。これは回り回って僕を救うという方法でもある。そんな風にして僕なりの経済を考えてみたいかなって思った。

経済(エコノミクス)とはオイコス、ノモス。家の在り方。つまりは生き方。
エコロジーとはオイコス、ロゴス。家の論理。生物と環境との相互作用。
でロゴはロゴス、タイポス。論理のスタイル。生物と生物との関わり。表現。

この辺りが一気に解けると気持ちよさそうやなって思う。
経済とは別にお金でも何でもないのだ。あなたの生き方(エコノミクス)に共鳴してしまったのなら、それはもう一緒にやりましょうよ!ってなるに決まっている。そうして徐々に輪が広がりエコロジーを考えることが出来るようになり、エコノミクスの中でロゴについての理解も深まるのだろう。一旦これをやってみたい。もう一度。

五十川十一ってなペンネームを人間2回目としてやってみようと思う。

ロゴの依頼はコメントなり、DMでもしてくれい!
いいロゴ作んで〜
お金がなかったら、おもろい提案でもしてくれい!

十一即席テープロゴ
五十川十一 横 即席テープロゴ

おもろい話、いい声をきかせて!今すぐにでも飛んでいくよ!
よろしく!

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?