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まともがわからない

おはよう。
最近、飲み会が続いて生活リズムが狂ってしまった。それを治すために昨日はサウナに行って、夕食を早めに食べてすぐに寝た。そしたら1時くらいに起きてしまった。ちょっと早過ぎるんじゃないの。起きれないよりはマシかな。

16診断テストなんてものがあるじゃない。ちょうど直近の飲み会でそんな話題になった。僕は以前それをやってみてどうやらINTP型らしいぞってのは知っていた。飲み会の次の日にもう一度やってみたのだけど、やはりINTP-A(論理学者)と結果が出た。論理学者って何なのか分からなかった。

もともと論理学は哲学の一部門だったため、哲学者が論理学者を兼ねることが多かった。ただ、19世紀末から論理学の研究が急速に進むようになって、論理学研究の担い手として数学者も沢山増えた(特に「数理論理学」の分野)。現在では、数学科や計算機科学科に所属している論理学者も多い。

Wikipedia

うーん、、わからん、、

これを見てみてもまぁ宇宙ってもんはどんなものなのかなんて考えるようなスケールがおかしい、どうでもいいことを考える(それが楽しい)、偏見のない(周りからはむしろ偏って見える?)、多才な(頭の中のことが実現すれば…)やつみたいなことが書いてある。論理学者と言われても身の回りにそんな人間がまるでいないから、本当によく分からないのだけど、"妄想家"なんて言ってみたら何だか分かってくる感じがしてくる。結果を友達同士で見せ合いっこしていたが、まじであってんじゃん!って言っていたから、僕はそんな偏屈な実直さ・純粋さ(またでた!オクシモロン!!)がきっとあるのだろう。

思えば、僕は何を作るにしたって、妄想から始まると考えるところがある。朝、起きたら散歩に行く。今日は何を作ろうかな〜って一日の最初から自分の世界に閉じこもる。それで、あぁでもない、こうでもないと色んなことが頭の中を飛び回る。それらを虫でも取るみたいにして、網でキャッチ出来たものを家に持ち帰ってきて、作ってみる(書いてみる/描いてみる/造形する/削り取る/色を付ける/プログラミングする/モデリングする…)。虫の標本でも作っているみたいだ!そうして実際に手を動かすと、散歩中には思ってもいなかったものが見えてくることがある。そこから再度考えて、別の作品に反映することもあれば、当初考えていたものから方向性を切り替えることもある。そんな風にしてアイディアの枝葉を伸ばしていく。
そういえば、僕の通っていた高校は「文武両道」なんてコンセプトを掲げていた。自称進学校あるあるの大変退屈な文言に聞こえてしまうのは、その中身が「部活」も「勉強」も頑張りましょう!!なんて、いかにも先生が言いそうなことだからだろう。文武両道とは部活と勉強とを切り離して考えることではなく、むしろその間を行き来してアイディアの芽を育むことにあるような感じが、最近掴めてきたような気がする。数学で複素数を学んだとて、部活に何か影響があるわけでもなく、部活をやっていたらある時、急に漢文が読めるようになることもまるでない。物理が分かると力を対象に傾けるモデルのイメージくらいは出来そうな気もするが、あくまでも"受験のため"の勉強なのであり、部活は部活で地域でどれくらいの位置に自分がいるのか確かめるくらいのものだった(先輩後輩に関わらずダベる楽しさもあっただろうが)。僕は高校時代、理系クラスにいたのだけど、数学が本当によく分からなかった。微分って何??みたいな。y=2xをxで微分すると2になります!僕はアホやから「はーい!!」って鵜呑みにしていたわけだけど、26歳になってgrasshopperというソフトでシルバーリングを作っていた時に、circleだったか、曲線だったかをDivide Curveで分割してみた時に、それを等分した点(座標)と一緒にタンジェントが出力されるから、そのベクトルを取り出して、それを元にモデリングしていって初めて「あっ!これが微分か!?」って、急に腑に落ちた瞬間があった。こういうことが学校では起きていない(頭のいい学生には出来るのだろうが)のだから、文武両道なんてのは本当にちっぽけな文言なんだった。身体を動かすこと(アウトプット)から分かることがある。むしろそれなしで"分かる"ということはあり得ないのかもしれない。このことを僕は高校を卒業してから10年弱経って漸く気付いた。本当にいつも気付くのが遅い。本を読んでも、YouTube見ててもみんなそう言っているのに、自分で捉えないとまるで身に付かないんだった。
中三の最後の通知表は9教科5段階評価で42だった。国語が4、音楽が3、あと全部5と学年でもトップクラスに成績が良かったのだけど、その時だって感覚なんて無視して、先生に言われることをそのまま飲み込んでいた。だから当時付き合っていた彼女に放課後の教室や彼女の家で勉強を教えていて「どうしてこうなるの?」って彼女が言っても、僕は「そう言うもんや」って答える他なかった。彼女の方が間違いなく僕よりも頭のいい人だった。"疑問をしっかりと持てる力"を持っていた。僕は「どうしてそうなるか?」ってことなんか完全にすっ飛ばして、先生に言われたことを咀嚼もしないで吸収しているんだった。消化不良も甚だしい。当時はそんな彼女をどこかで馬鹿にしていたところもあるが、今はそれが本当に恥ずかしいことだったと思っている。「いい子ちゃん」というのはそういう危うさがある。先生からの評価なんて本当にふざけたものだとそれだけでも分かるじゃない??僕よりも彼女を評価出来ない大人が先生なんだ。しょうもない。本当に僕は後悔している。何も分かっていないオール1のバカは僕だった。そんな劣等感が今は常にある。だがこんな言葉も知っている。「どん底に落ちたら掘れ」先生には評価できないオール0なんてものを目指してみるのも悪くない。誰かに刺さるものがオール5だなんてことはあり得ないんだから。

先生とは文字通り「先に生まれてきた」人だ。子宮から早く顔を出した。それ以上でもそれ以下でもない。本当にそれだけだ。後から生まれて来た人のことを後生なんて言うのだけどあんまり聞かないか。中国には孔子さんなんて方がおられるが、「後生畏るべし」なんて言っている。年若のものであるからと言って、それだけで侮るべきではなく、将来いかなる人物に成長するか測りがたいので、畏敬をもって接するべきだってな意味らしい。なんでこんなことを言い出したかっていうと、これも最近の飲みの場で教師なんてやっていて実際に「先生」と呼ばれている人と話したことが思い出されるからだ。それで僕が感じ取ったものがこの孔子のような視点の欠落だった。ものを見る時に、もちろん何が書かれているのかもまぁ重要ではあるのだけど、"何が書かれていないか"というのを掴むには知識、というより教養??が必要になってくる。中々侮れないのがこの「無いもの探し」。何かを人に話したときに、「君の話しにはこれがないよね」なんて言われるとドキッとするものだ。SDGsには戦争についての記述がないなんて言っている人がいたけれど、そういうものが見える人のことを僕はどこかで尊敬しているところがある。これを教えてくれたのが最初の彼女だった。
先生と呼ばれる立場にある人(回りくどすぎ??)への軽蔑は僕が「いい子ちゃん」という仮面を脱ぐために受けた傷の深さに由来する。まぁそんなことを言っていても仕方がないとどこかで思っているところはあるから、せめて今を生きる子どもが僕のようにならないで済む方法はないか、はたまた「いい子ちゃん」から脱したい人からどのように仮面を剥ぎ取るのかってところに思考が移るんだった。
nは1だから何の参考にもならないかもしれないが、先生という職に就いている友人に、ひたすら質問を投げてみた。本当に迷惑な酔っ払いだっただろう。それでも勉強になったなんて言ってくれた。
彼はこんなことを言っていた。「あくまでも"集団生活"なんだからある程度の柵を設ける必要がある」と。柵はあくまでもメタファーなわけだけど、皮肉なことにいい子ちゃんはその柵が、いつしか檻になって閉じ込められる。これはメタファーでも何でもない。閉じ込められていることも、それで苦しんでいることも忘れてしまうくらいよく出来た檻だ。「そのことにお前は自覚的であるか??お前の評価の裏にはこんな子どもになれ!って脅迫があるんだ。それを分かってやってるのか?お前は慕われているから先生と言われているわけじゃない。立場でそう言わせているだけだ」ってなことを言ったような。あまり面白いことを聞くことが出来なかったけれど、5をつけられる犠牲者はクラスの上から3人くらいって言っていたかな。ある種の相対性があるらしかった。そうか、先生には"絶対的な愛"がないんだってこともそこで気付いた。これには確かに問題がある。先生がある生徒を持ち上げるのだから、それをいいと思わない子がいたっておかしくない。だけどこうも考えられる。先生に多様性がまるでないと。僕の中学には粘土でちんこを作った生徒に5を付けた美術の先生がいた。そういう変な定規を持っている教師が、独自に評価することのほうがよっぽどまともだと思った。国語の授業で「作者の気持ちを考えよ」なんてクソ問題があったけれど、そんなものを正確に答えられることよりも、小説の中の一人にめちゃくちゃ感情移入できる感受性の豊かさを評価したっていいだろうし、物語全体を通してそれを別の切り口から考えてこれはこんな社会を投影したものなんじゃないかって分析する能力を評価したっていいはずだ。はたまたこの作品を元にして、自分でこんな物語作っちゃったよ!!なんてやつがいたっていいじゃない??評価軸が極めて狭い(そして限りなくチープ)にも関わらず、さらに意識的に柵を設けている。こりゃ子どもたちは苦しいやろなって思った。
Fishmansの「教育」という曲を聞いたことがあるだろう。ないか。9秒足らずのこの曲を初めて聞いた時はアプリがバグったのかと思うくらい唐突に曲が終わる。カッカッカッとドラムスティックを叩く音がして「シンナーはよくない」って終わるんだった。これはそのまま僕が書いたことに似ているような。それらしいことを言うだけ言って終わるこの曲だが、そんな曲のタイトルを「教育」と付けるのには痺れる。確かにそんな浅さを先生は恥ずかしげもなく晒しているように僕には見えるんだった。だから小中高の先生のことを僕はかなり軽蔑している所がある。その癖、自分達に自信(公務員という立場や肩書きと、子どもの上に立っているんだという勘違い由来の)があるのもまた痛々しい。大学までストレートに階段を登り、特段遠回りすることもなく、教員になっている。偉くも何ともない。何を考えて、何をしているのか、そう言うものを見るしかないんだろう。文武両道の例のように言葉を考えないまま出してみることはいいが、出したことによる周辺の変化から再度考えることをしない人のことを先生と呼んで、生徒たちみんなでバカにしている場所を学校なんて呼んでみてもいいのかもしれない。
そういえば「先生と言われる程の馬鹿でなし」なんて言葉もあるくらいだ。

先生と言われる程の馬鹿でなし
先生と呼んでも、必ずしも敬意がこめられているわけではなく、むしろばかにすることの多いところから、呼ばれていい気になっている者を軽蔑していう。 人をむやみに先生呼ばわりする風潮や、呼ばれて得意になっている人への批判をこめていう。

コトバンク

太宰治もこれについて書いていることがあったような。

ほれほれ!そんな諺があるもんだから言葉を扱う太宰は丁寧にそんな風に書いたのだろう。言葉にすると何かが付き纏ったり、はたまた何かが抜け落ちたり、何と不便な道具なのかって気がしてくる。デュシャンもアンフラマンスなんて言ってこんなことを言っているじゃないの。ちょっと違うか。まぁいい。言われてみると確かに普通先生なんて呼ばれたら恥ずかしくもなるものだろう。何度でも言うが、ただ子宮から早く顔を出しただけの人間が先生と呼ばれていい気になっている異常さを認識して欲しいものだ。
まともな人とはいつもおかしく見えるものなんだと最近考えている。最後の一文の「天才とは、いつでも自身を駄目だと思っている人たちである。」ってところからもそんな背景が見えてくるような。最近活動を休止している東海オンエアの動画で僕が最近見たものでこんな動画がある。ちなみにしばゆーは僕の大学、学科の直属の先輩に当たる。まぁどうでもいいことだ。

1時間ノーベル賞についての授業を受けて、東海オンエアメンバーがそれぞれ何点取れるのかって検証企画だ。ノーベル賞を取るような人たちはまぁみんなすごいのだろうけど、どれか挙げてみるとしようか。
例えばアインシュタイン。相対性理論でノーベル賞を取ったと思いきや、違うらしい。光電効果という法則の発見と仮説において受賞したらしい。僕も全く知らなかった。この動画によると光電効果ってもんは光を金属に当てたらなんか電子が飛んでったぞってところから、波だと言われている光を粒子だとしてみたらいいんじゃね??って見てみて(光量子仮説)、光は波でもあり、粒子であるという性質を示した。まともなことを言うとどうも世間とはズレが生じるらしい。そういうものの見方をこそ、まともと思いたいのだけど、みんなが波だと言っているんだし、まぁ波なんでしょ??って考え方をまともだと考えて、光は波です!といって柵を設けるもんだから、おかしくなっていく。柵は飛び越えなければいけない。柵を引っこ抜かなければいけない。その結果が間違っていようが関係ない。むしろ自信満々に間違えてみることから始めてみよう。そういう土壌にこそいい花は育つはずだ。まともなことを言うと世間からズレる。喜んで柵を飛び越えよう!これが先生の考えに対する僕の今の所の結論だろうか。

じゃあどうやって柵を飛び越えるのか??って僕は聞かれて困ったから、またこうして考えてみている。一つ答えがあるとしたら、モノを作ってみればいいんじゃないかって気がしている。何か書いてみたらいい。それだけだ。作っているとその中で、気付くことがある。それをまた次に反映したらいい、それからまた違ったことを考えられる。頭で考えると正論を言ってしまいがちだが、手で考えてみれば、実際に身体を動かしてみれば、実はこっちの方が合理的なんじゃないか??って別の道が見えてくる。普通のオフィスではなくジャングルジムを置いてみたらいいのではないか??って意見が出てきたって不思議じゃない。これはこれでやってみたらよかったんだろう。日本ではこんなこと思い付いてもやらないんだろう。それがまともなんだろう。そうやって生産性を下げ続けているんだろ。とりあえずやってみよう。しかもそれが楽しい!めっちゃ!こんないいことある??って思っている。

救いを求める人たち(こんな言い方はしたくないなぁ。友達って言いたい!!)には、いつも折り紙やろうぜ!塗り絵でもいいか!口笛でも吹こうぜ!とか、まぁテキトーなことばかり言っているのだけど、あんまり響かない笑笑 みんな僕のことをどこかで見下しているのか!?そらそうやんな、実家から出られないクソニートが僕だ。でも楽しいのは僕だ。おかしい??そんなこともないでしょうよ。お金のために精神を、時間を、犠牲にしているあなたと、自分の健康のためにお金という手段からある種一定の距離を持っている僕とで比較して何になる?みんな違うんだから、みんな違った価値観があっていいはずだ。何から何まで同じ人がいるのか??双子でだって違うじゃないの。違うのに同じにしようと柵を立てて、進むべき道を揃えているからおかしくなっているだけだ。ペットショップの犬だって「つまんねぇ」って言ってるに違いない。大人の作った柵の外に何があるのか、あなたには足があるのだからそれを使って見に行ってみたらいい。足がないなら足を作ろう。友達を足にしよう!(なんて言い方だ!)なんて小さな世界に生きていたんだと気付くだろう。それにはかなりの痛みを伴うかもしれない。でも今、あなたはあなた自身にまるで満足していないじゃないの。だったらそんなところから離れて、もっと陽の当たる気持ちのいい場所に自らが動けばいいだけだ。そんなこと猫にだって出来ることだ。それを人間にだけ出来ないなんておかしな話だ。そんな風にして、先生が押さえつけるために作った柵を一つ一つ引っこ抜いていけばいい。焼き尽くせばいい。先生は他人と上手くやることを求めるが、そんなことはどうだっていい。他人を変えることなんて出来ないのだから。まずは自分と上手くやっていく方法を手を動かして考えてみればいい。出来るでしょ?どうしてあなたは、あなたを大事にしない人間を変えようと必死になっているの??まずはあなたが、最大限の、絶対的な、愛を持ってあなたを認めてあげればいい。その愛が有り余ってきたら、余裕が出てきたら、誰かに渡してあげればいい。ほら!もう友達できたやん!結構単純な話やない??綺麗事すぎる??でも学校の先生よりも信用出来ひん??楽しそうやない?これも柵だって??でもあなたはもう飛び越えられるでしょ??ね??説得力がない??本当にその通りだ。僕は未だにバイトしているんだった。早く辞めたいな。どうしたもんか。助けてくり。やっとロゴデザインでその辺の社会人くらいには稼げるようになったところやったんやけどな笑 つまらないものを作る自称デザイナーに客は集まるし、どうやったって友達になれない担当者がいることがきつかった。。でも一度チャレンジしてみて、何とか一人でも出来ることがあるっぽいぞってことは分かった。あとはそこから輪が広げられるか?ってところを考えないといけない。お金のやり取りではなく、やり取りを通してどうしたら友達になれるか?ってところが重要だ。そういう意味では別に友達の依頼ならロゴだって続けるし、まだ第一歩を歩み始めたところとも捉えられなくもないが、、2024年はバイトを辞められるようになれたらいいなぁ。多少は話を聞いてもらえるようになるんじゃないか。

まともがわからない。いいや、まともという言葉のベクトルを少し直してやるだけだ。正論とはちと違う。おかしな方向に進んでみることだ。おかしく聞こえることこそ、きっとまともだ。そんなモノを出来る限りキャッチして少しずつ進んでいこう。

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