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火を見て語らう

あけおめ。
今年の元日も何かを作ることから始まった。何なら元日だってことすら忘れてて、今年最初のInstagramのストーリーズは作品の進捗具合だった。あんまり面白くなかったから公開していないが10,000字くらい書いたし、いつもと何も変わらない日常だった。タバコを切らしてしまったから買いに行ったらその帰りに、地震で自宅のマンションのエレベーターに閉じ込められそうになった。幸い無事だったけれど、少なからず2024年どうなっちゃうのよってな気配は感じた。人が勝手に決めた"元日"なんてものにたまたま地震が重なったってだけなんだけども。自然とはなんて平等なのか。そんなことを考える。

年末年始だから社会人やってる友達が帰ってきている。だからまぁ久々会おうやってことで、昨日はお昼くらいから外に出ていた。友人の一人はもうお父さんやってる。僕はなんて人生、遠回りしているんだって思わないでもないが、効率的に生きるのだったら生まれた瞬間に死ぬのが一番だ。だとすると遠回りがもっとも人間として豊かな生き方なのかもしれない。そう思いたいだけか。な。
僕は飲んでる薬の影響か、医師から車は運転しないようにと言われているし、そもそも車持っていないしで、いつも誰かを足にしている。お父さんである親友とその赤ちゃんが二人で迎えにきてくれた。赤ちゃんを見ているととても面白い。快/不快をしっかりと笑う/泣くで表現している。こんなこと大人はしないじゃない。不快なものは溜め込んで、居酒屋ででも愚痴にするくらいなもので、最悪の場合は自殺する。赤にはそれがしっかり表現できる。大人はそれを表現しなくなるのかって気付いたんだった。赤ちゃんだったら泣くしかない表現を大人はしなくなる方に進むんだけども、そのままに、いや寧ろその表現の幅が広がったら面白いのにって思った。別になく以外でだって、赤ちゃんを観察していると、どうも興味のある方にじっと視線を傾けるようだった。そうやって興味のあるものを捉え続け、その興味の対象が次々に移り変わるのもとても共感できることだった。そんなもんやんな!なぁ〜??って。僕もそうやって最近生きているのだから。今日もね、こうやって文章を書く前は絵を描いていた。いつしか作った"円よりも丸いカタチ"って試みでいくつか思いついたもんだから、それに没頭していた。昨日帰ってきたのが23時を過ぎていたから今日起きたのは10時とかそんなだったけれどいつもの通り絵を描いた(ものを作った)。どうやら僕は大人よりも赤ちゃんの方が共感できることが多いような気がした。本当に見ていると面白いし、何より可愛い。そんなだから、お金もねぇのにお年玉なんてあげちったよ。そしたらこっちに笑顔を向けてくれた。気のせいか。ただ、髭面の長髪の汚らしい人間は新鮮なのか、ずっと目が合っていた。DJIのOSMO POCKETってカメラあるじゃない?あんな風にして常にトラッキングしてくる。何でか僕のことが気になるようだった。それで思い出したのだけど、親と一緒に歩いていた時に親が「お前と歩いてると、めちゃくちゃ色んな人に見られるな」って言われたことがある。僕はそれには無自覚だった。確かによく人と目が合うなとは思っていたけれど、他の人がどうなのかは知らないもんだから、特に気にしていなかった。それが普通ではないことに、そんな風にして気付いたことがあった。赤ちゃん同様気になる世界・存在へのセンサーはきっと大人になっても反応しているんだろう。その世界に飛び込めるか?ってなってくるときっと赤ちゃんに軍配が上がるんだろう。ハイハイとか歩けるようになってきたりと、動けるようになる時が楽しみだ。とても勉強になった。

赤ちゃん観察ばかりしていたわけではなくて、お昼はBBQをしようってなった。食材を調達し、準備をしていく。炭は元々友人の家にあったものを使わせてもらった。が、その炭は湿気ってしまっていて、バーナーで直接炙ってもまるで火が付かなかった。新しい炭を買ってきてもらったりして、ご飯にありつけたのは3時を過ぎていたっけ。最近は暗くなるのが早いから、マシュマロでも焼いている頃には真っ暗だった。そうなってくると焚き火で灯りをとっていたのだけど、まぁこれがとてもよかった。火を見ると落ち着く。これは人間の中に埋め込まれた記憶そのものが作用しているような気がしてくる。今の生活には火がまるでなくなってきているが、これを僕は建築というものを学んできた人間としてどうも気になる。

火や熱といった言葉を語源にした"Hearth"という言葉がある。これは今では暖炉といった意味が一般的なのかな??このHearthという言葉が何故か気になった。こいつにはもう一つ意味がある。それは「家庭」だ。今の人たちからしたら不思議やない??なんで火という意味と家庭という意味が同じ言葉に与えられているのかって。それから家庭という言葉を考えてみると文字通り、「家」と「庭」となる。家はそのまま住居や家族、庭は家の周りの空間といった具合に広がっていく。それで、縄文時代まで遡るのだけど、竪穴式住居ってあるじゃない?これの中心には火を扱う、囲炉裏がある。そしてその周りに生活空間があり、建物がそれを覆っている。ここまでがハース→家。そしてその周りに集落があり、庭ではないかもしれないが、食料となる木の実がなっているような木が生えた森でもあったんだろう。ってな感じで家→庭と生活圏が広がっている。Hearthには生活の"中心"という意味もあるのだが、そうやって考えてみると何となく分かってくるじゃない?これについては暖炉は団欒の"中心"であり、家族の温かな集会場として"中心"なんだってな説明があるが、真っ暗な外側というものに対してしっかりと中心を持つということで人間が生き残ってきた歴史・記憶があるんじゃないかって気がしてくる。それから時代をもう少し今に寄せていって、白川郷の合掌造りなんかも同様に中心には囲炉裏がある。もっと時代を今に近づけるとフランクロイドライトが設計した落水荘という有名な建築があるけれどこれも中心には暖炉がある。また、僕の誕生日が命日である吉村順三が設計した軽井沢の山荘だってそうだ。今の家で死にたくなるのは当然のことかもしれない。だってそこに中心がないのだから。そんなものを簡単に作ってしまう奴らのことをどうして建築家だなんて言えるのか?ただの人殺しに相違ない。奴らは記憶なき殺人者だ。僕は激しく嫌悪しているんだ。建築家という職能を。肩書きを。アホくさい。Hearthがそんなことを教えてくれる。僕の建築観の中心にはそんな火が灯っている。というのは臭すぎるなぁ笑

今の時代にもまだ残っているHearthがある。それは記憶なき殺人者たちに今、最も煙たがられている存在の一つである煙草だ。煙草のもたらす結束力もまた、Hearthという火を中心にして作り上げられるコミュニケーション(いわゆるタバコミュニケーション!!)だからこそ強いんだと思う。彼らはそうした火を中心にして生きづらい世の中という外の世界と戦っているんだった。それを健康万歳!!とかいってやめさせようとしている人たちをこそ僕は怖い。人間は何故か人間の、その生活の、中心を取り去りたくなるらしい。これについては頭で考える世界、つまりは都市を考えていくと自ずとそうなっていく感じがする。いつからか建築も都市を考えることになっていくのだけど、僕はむしろ自然があるところにこそ建築的なるものがあると考えるところがある。これについては言語化してこなかったのだけど、今思うと卒業制作でやりたかったこともこれに繋がってくるような気がしてくる。愛知県は新城市の湯谷温泉という川沿いに広がる小さな温泉街があるのだけど、そこの空き地に僕は屋根を掛けるって作品を卒業制作では作った。これを大学院のゼミで発表したときに、「君は屋根を作りたくて作ったんじゃなじゃないんじゃないの??本当は岩をただ岩として置きたかっただけのように感じたんだけど違う??」って担当の先生に言われたことがある。本当にそうだったかもしれない。実際に湯谷温泉の近くを流れる敷板川はとても綺麗でそれをみているだけでとても気持ちのいい場所だった。何も建てる必要がないと思っていた所があった。でも卒業するためには何か作らないといけないと思い込んでしまっていた。湯谷温泉にはその入り口である駅がある。ちょうど僕が卒業制作をしていた時期に駅舎が取り壊された。また、湯谷温泉は何故かその環境の良さではなく、長篠の戦いを推している所があった。そうしたところにもっと本質的な中心となる火を一つ灯せられればよかったのではないかって気は確かにしてくる。こうした建築学科的な問題は実は根が深くて、日本は空き家が849万戸あるらしい。それなのに人は35年ローンで家を建てている。これも実は結構おかしな話だったりする。なんで??どうして??ってところを考えることを大学生の頃でだって出来なかった。と、なかなかに脱線してしまった。建築には本当に思う所が多いのかもしれない。
都市というものを考えるとどうしても綺麗にしてしまいがちな所がある。これをジェントリフィケーションと言ったりするのだけど、これもまた記憶なき建築家や政治家達が悪さをしているだけの話だと僕は思う。タバコ一つとっても好きに吸えなくなっている。おかしな話ではないか。頭で考えると服が臭くなるとか、身体に悪いとか、まぁいろんなことが言えるけれど、人類の記憶からすれば、はたまた喫煙者たちの団結力を見てみればHearthという火を中心に集うことの重要性は明らかじゃないか。縄文から始まるような、長い人間たちの営みからしたら、むしろ僕の方が普通のことを言っているだけのような気だってしてくる。歴史や記憶を消し去ることがジェントリフィケーションというある種の活動なんだろうか。ちょっとテキトーにしゃべってるからね。ほんと。
電子タバコなんてのも、僕からするとまるで惹かれない。同じような効果・作用はあるのかもしれないけれど、僕にはオレンジ色の火が足りない。買ってみたことはあるのだけど続かなかった。吸う度に自分で巻かなきゃいけない、しちめんどくさい手巻きタバコなんて吸ってるのにも関わらずだ。

そういえば火を見ても赤ちゃんは泣かなかった。これが不思議で何でだろって考えていたのね。オムツの中のうんこで泣くのに、あんなにも強烈に燃え上がる火を見ても興味こそ示せど、不快ではないらしかった。それで僕はこんな風に思ったんだった。人間にはきっと火を見ることで思い出す記憶があるんだって。
本当に赤ちゃんを、子どもを、見ていると面白い。頼むからこのまま大人にはならないでいて欲しい。中心を、本質を忘れないでいて欲しい。

本当はもっと書きたいことがあったりはするのだけど、これから今日も用事があるので、そろそろ出ないといけない。
もしかするとこれに加筆したり、書き直したりってことはあるかもです。まぁ、明日以降の自分に任せまーす。よろしく!!

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