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ただぼんやりと建築を考えてみる

負けるが勝ち
小さな巨人
懐かしい未来
孤独であり、充実していること

一見矛盾したような言葉が最近面白いなと思った。これをオクシモロン(Oxymoron)と言うらしい。

相反する、矛盾にも似た状態をいかに作り出すか。こんなことから何か書いてみようと思った。

例えば、「生活に芸術を組み込む」なんてことを考えてみる。生活と芸術とは相反するものだ(って考えられているらしい)。生活は日常、芸術は非日常という線引きがどこかでされてしまっている。が、僕は生活の結果が芸術を生み出すといいなとどこかで思ってる。その反対に、芸術の結果、生活に活力が生まれるといいなとも思う。
オクシモロン的に矛盾の中の対岸を行き来するようなこと。それは、きっとどこか建築的な行為だと直感してる。

エコノミクスの語源はオイコス、ノモス。
オイコスとは家を意味し、ノモスは掟や慣習を意味する。エコノミクスとは経済を意味するが、その語源は「家の在り方」であったことが見えてくる。「家がどうあるか」という課題は、建築的な課題でもあるような気がしてくる。その人がどのようにして家を建てて、生活をし、生きていくのかと考えていくと、エコノミクスとは生き方そのものなんじゃないかって見えてくるじゃない。

日本語で経済というのは経世済民の略らしい。
世を経め、民を救うこと。
なんだかえらそうな言い方が気に食わないから、もっと自分ごとに落とし込んでみたい。世というと広い。というかそんなものおさめられないから、家やその周りくらいに落とし込んでみるかと。民って誰だよ?自分?家族?友人?と、スケールをどんどん小さくしていくと、自分自身の家についてしっかりと考え、育むことくらいになるかしら。

どちらにせよ、「生き方」そのものを問われている。ハイデガーが住むことと建てることは語源が同じと言っていることも、なんだかこの辺の意味に繋がってくるような気がしている。生活のために家を建てるわけでもなく、生活をしている中で家が建っていくような。荒川修作みたく、生活を通して肉体や精神まで建築していくようなことを生活と読んでもいいと思う。

ここで自分がやってみたことを観察し直してみる。膨大に膨れ上がった言葉を語源を元に本質に戻す作業を行なった。これを生活単位で行うことが重要なのかもしれない。建築すると言うことはこのようにして、積極的にモノを本質へと戻していく行為なのだとも感じられる。

そこで建築(Architecture)についても語源に戻ってみる。ギリシア語ではarkhitektonに由来する。アルキは最初の、主要なという意味があり、テクトンは職人、素材を用いてそれらを組み立てる技術を持った人という意味がある。とすると、モノの本質を掴み、それを表現する人がやはり建築家の役割だった。そうした意味で考えると今の時代にこれに当たる、本当の建築家なんてほとんどいないことは誰でもわかるはずだ。むしろアーティストの方がその役割をきちんと果たしているように思う。ただ、僕が考えるに、誰もが本当の建築家であるべきだろう。肥大した言葉に振り回されている場合ではない。その言葉の核を見つめ、網目から抜け落ちてしまった大量の粒を再度ひとまとめに構築し、自分の言葉として持たなければいけない。言葉みたいなものでなくても同じで、次元を取り戻すと言ってもいいかもしれない。我々は3次元を生きていると思い込んでいるが実は4次元を生きられるかもしれない。そうした高次元への扉を開くことが建築家になるための第一歩かもよ。

また、少し話が飛ぶ。いつか戻ってくるからね!
育児という言葉が最近、キモいなぁって思っていた。大人が子どもを育てているように見えて、実は大人が子どもに教えられている。子どもの方がより本質的なものの見方をしているはずだ。割と早い段階で子どもは発達する。が、ある時を境にその能力の刈り込みが始まると聞いたことがある。大人になっても絶対音感を持っている人がいるがそれは子どもの頃の感覚が残っているモノなのではないだろうか。発達障害もそうで、きっと子どもの頃の感覚が抜けていないこと、大人になれないことをそう呼んでいるのではないかって考えている。育児とは、子どものそうした感覚を大人が忘れないために、というか思い出すためにあるのだと思う。動物はそれを忘れないから、育児をあまりしな(くてい)い。僕は残念なことにそのような相手がいないから、子どもを育てるどころか結婚ですらまるで関係がない。

鬱で一度棺桶に片足突っ込んで帰ってきたことで、「人間二回目」なんて冗談で言ってみたことがあった。それがきっかけで一度真剣に自分の過去を振り返ってみた。なんならそれについて小説まで書いている始末。だんだんそれも飽きてきたんだけどさ。ただ、そうしてみて気付いたんよね。きっと育児も、こうやって子どもの成長を通して自分の過去をなぞるんだろうなって。ほんと想像でしかないんだけどさ。育児って言葉のキモさは、子どもに対しての大人の上から目線にあったんじゃないかなと。子どもの方がきっとたくさん知ってる。多くの感覚を持っている。それを忘れて大人になる。育児は児が育てるって意味なんじゃねぇか?って気付いた。バカな大人はそんなことも忘れて、上から目線に育児なんて言っているんだろ??そうだろ??

で、この育児というものもそうで、ものの本質がどこにあったかを身をもって体験することを通して、大人が成長するわけじゃない??そういう体験を自ずから積極的に巻き起こすことで、家の在り方が変容する。物理的に家のカタチが変わったっていい。それによって中の人間のカタチも変わる。生きるってことはそういうことなんじゃないかなって思ったわけだ。だからみんな建築家である必要がある。

ここで、水と器の関係が頭に浮かんだ。
今の生活は器(建物)が、水(人間、生活)のカタチを決定している(ように見える)。器がどんなものであれ、水はその中に留まるしかない。水はどうやら窮屈そうだぞと。普通の人には分かるはず。水がその窮屈さを怒りに変えて渦を巻き、器を変形させてみたら、なんだか心地いいカタチが出来てきたぞ!!ってことがあるかもしれない。はたまた、水が太古の海の頃の記憶を思い出し、大きな波を持って器を変形させてみることだってあっていい。水が自ら新たな器を作り出すこと。そのカタチに沿ってまた水はカタチを変える。これはきっと生きると言うことだ。生き方。エコノミクスじゃないか。そのようにして作られる、「器と水」の関係そのものが人間の存在を意味し、そしてそのカタチが建築すると言う行為になるのではなかろうか。

それからまたもう一個のイメージが浮かんだ。
芋虫が蝶になる過程だ。
芋虫は地面を這うことでしか移動できないが、生きているといつしか蝶になり飛べるようになる。
その間には蛹というドロドロの液体になる期間がある。器と水の関係みたいじゃない??
きっと器に慣れてしまった水はそのカタチでだんだん固まってくる。それを芋虫と捉えてみる。そこからもう一度ドロドロに溶かしてみることで、新たなカタチを獲得し、以前の器を中から突き破る。そしたらなんか飛べるようになっちゃった!!また固まってくるかもしれない。ええい!またドロドロになれ!と新たなカタチを獲得したら、あらびっくり、宇宙まで行けるようになっちゃった!みたいなことがあるかもしれない。

器と水のような家と人間の関係性と、芋虫から蝶になるようなドロドロとガチガチを行き来して本質を掴み続ける積極性。これらのイメージから僕はなんとなくなるほどねって思えたかなと。
みんな建築家という偉大な少年になろう。ぜ。
ドッカーン!!

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