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Δ56 私にとっての自由とは?

実生活においての心の状態、そして実際に起こっていること、行動していることが大きく変化しています
右に左に大きく揺れ動いている中、一人サットサンをすることがとても大きな碇の役割を果たし始めていることに気づきました

しかし、同時に「私何やってんの?どこに行こうとしているの?」という大きな疑問が浮かび始めたので、ちょっとここで立ちどまって確認をすることにしました

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自由を求めなければならないとパパジは言うけど、自由ってなんなの?

私はこの世界のあらゆる規制、限界、制限から自由になりたいと思っていたけど、「私」という自我から解放されることが自由の意味なの?

私であることが自由でないのなら、この個性を拒絶して真我に戻ることだけが真の自由なの?

それってどう言うことかまだよく分からないし、自分がそれを望んでいるのかも分からない

私は何を望んでいるの?

そもそも、彼ら(パパジや聖人たち)はなぜ解脱を望むの?

彼らは瞑想の中に何を見出したの?
どうしてそこへ溶け込みたいと願ったの?

究極の解放が解脱です

自由を求めることを突き詰めた最終的な形のない形
この世でたどり着くことのできる、真我と溶け合った生です

究極の乗り手である真我が、ポンコツのあなたを運転してくれる状態と言っても良いでしょう

その時ポンコツは、その最大限の力を発揮し、最大限に美しく輝くのです

あなたのフィルターを通しての真我を求めるのです

プーンジャは彼のフィルターを通して語ります

あなたはあなたのフィルターを通す以外の方法がありません
そして、受け止め方も同様に違うでしょう
(これは多分、友人のチャネリングをした時の状態と同じ。パパジが真我なのに対して、チャネリングは自我同士の交流なのかも)

あなたが自我を手放すとき、自我は単なる独特な形(個性)をしたパイプあるいはフィルターとして機能するのみです

真我はそのパイプあるいはフィルターを自由に通り抜け、その自由さがあなたの求めていた自由そのもののことです

わぁ、なんかこう言う説明だとよくわかるよ
でもね、私はまだ制限をうまく手放せてないみたい
だって、すぐに考えてしまうし何よりも自分で考えてやってるのか、真我がスムーズに流れているのかよく分からなくなることが多いんだもん

識別の方法はわかっています
それを忘れないようにするのです
(心地悪さ、不快感、もどかしさ、難しさを感ることが抵抗があるというしるし)

うん、そうだね
でも気づいた時にどうすればいいの?

リラックスして手放しましょう
そこから実際に離れてしまうのも一つの方法です

そのうち自然にそれができるようになります

私を真我が通り抜けている時の自由さが私の求めていた自由さ、って言うのはすごく良くわかった

スムーズで、テンポが良くて、爽やかで、心地よいあの感覚がある時が抵抗のない時なんだね
いつもあの状態でいたいよ

それが真我を求めることであり、自我からの解放を求める、つまりは自由を求めるということです

あなたのフィルターを通しての「自由を求める」という感覚です
つかめましたか?


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