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死について考察する5/n(リンゴの木、植えます?) : わんだろうより、親愛なるセネカ師匠へ

桃の季節はあっという間に終わり、もう梨の時期。「幸水」の名前を見ると、えっ、無政府主義者の?と思うわたしはおかしいかもしれん。(それは幸徳秋水)

今回は、梨ではなく、りんごの話。有名な「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、今日私はりんごの木を植える」。
ルターの名言と言われていますが、実際は誰の言葉か分からないらしい。名言あるあるだな…

サラッと聞くと、なんか格好よさげ…
何があっても動じず、淡々とやるべきことをやるのよ、みたいな感じですが、ちょい待ち。【明日わたしが死ぬとしても】じゃなくて、【明日世界が終わっても】なのが、引っかかるところ。

『死と後世』、いわゆる生まれ変わりとかの話ではない。自分の死後、世界が存在するか否かが、生きているわたしの認識・行動に影響するか?という、興味深い論考。

明日、地球が滅亡して生き物全部いなくなるのであれば、そりゃあ、抗がん剤の研究、とか、地球温暖化防止の研究、とかはしないかもね…
逆に、自分がいなくなるとしても、世界はそのまま存在し、後世の人々の役に立つかもと思えば、りんごも植えるし書物も残すかも。

ローマの哲学者、セネカ師匠の『倫理書簡集』にも、後世の人々というワードが登場します。

私が身を引いたのは、人との付き合いだけではなく、世事一般からも、とりわけ私個人に関わることからもだ。私は後世の人々のための仕事をしている。後世の人に役立ちうることを書き残している。 ためになる教えを、いわば効きめのある薬を調合するように、文字に託している。それが私の潰瘍には効果のあることが分かっ たからだ。この潰瘍は完治してはいなくとも、進行は止まっている。

ルキウス・アンナエウス・セネカ『倫理書簡集』8

哲学者として功成り名を遂げたセネカ師匠、ただ言行不一致をつつかれて、辛い晩年ではあったと思う。
そこを、いやいや、べつにいま分かってくれとか思ってないし!後世のためですわ!正論を言って何が悪い!と、ガンガン文章を書いていくスタイル、大好き。

いかなる美徳も隠れたままではなく、隠れていたことも損失ではない。埋もれたまま同時代の悪意に虐げられていた美徳も、日の目を見るときがいつか来る。

同世代の人々のみを考える人の一生は、わずかな人にしか関与しない。数千年の歳月、数千の民族がまだあとにやって来る。そこに目を向けたまえ。たとえ君とともに生きるすべての人々が妬み心から沈黙を決め込んだとしても、いつか毛嫌いもなく、ひいきもない判断を下す人々が現れるだろう。

もし美徳が名声から受け取る褒賞がなにかあるとすれば、それも失われることはない。
私たち自身にはたしかにいっさい関わりのないことだろう、後世の人々が何を話そうと。しかし、それによって私たちは、自身は感じることがなくとも、敬われ、褒めそやされるだろう。

誰であれ、存命中にも死後にも美徳が報われなかったことはない。それには、ただ美徳を良心に背かずに求め、自分を飾り立てたり彩ったりせずに、人前に出されるのが予告を受けたあとであるにせよ、用意もない突然のときであるにせよ、いつも同じでありさえすればよかった。見せかけは、なんの役にも立たない。軽薄にうわべだけつくろった顔に騙される人は少ない。真実はどこをとっても同一のものだ。欺くものには確固たるところがない。脚は薄っぺらだから、透けて見えるはずだ。仔細に調べてみればよい。

ルキウス・アンナエウス・セネカ『倫理書簡集』80

数千年の歳月。スケールでかくて素敵すぎる。
でも、ストア派の宇宙観では、定期的に宇宙(世界)って、ガラガラポンするのでは?
エクピロシスEkpyrosis(世界燃焼)といい、世界存在は周期的に創造と破滅を繰り返しており、それは大火によって起こる、という論。

周期的に、の周期がどれくらいと考えられていたのか、新しい世界でも同じ意識を持った人間が生じるのか…知りたい事だらけ。これってもしかして、ニーチェの永劫回帰的な??
風呂敷が広がりすぎて畳めませんな。
後世&後生(漫才コンビのなまえみたい)については、またあらためて。
ではお元気で。

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