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死について考察する2/n(イワン・イリイチ) : わんだろうより、親愛なるセネカ師匠へ

さて、一人称の死について。
わたしが衝撃を受けたのは、トルストイの中篇『イワン・イリイチの死』。これは全人類に読んでほしい…

"19世紀ロシアの一裁判官が、「死」と向かい合う過程で味わう心理的葛藤を鋭く描いた" との紹介文、

たしかにその通りなんやけど。

最初は、イワン死去の知らせが職場の裁判所に届くシーン。悔やみを言いつつ、ということは、あの役職が空くから…みたいな皮算用を始める同僚たち。

親しい同僚が弔問に向かう。イワンの妻は、涙を流して迎えたものの、じきに、夫の死を理由に手当を多く貰えないかと持ち掛ける…

そして、イワン視点の、生涯の物語。世間から成功者と見られ快適な生活を送るべく、家庭の不和は見ないふりをして、陽気に上品に生活していたが…

そこからの描写が、心理的葛藤と一言で片付けられない凄まじさ。そして、イワン自身は最期に救われた(と思う)けど、他人から見たら単なる三人称の死であるという、かなりドライなラスト。


自分が死ぬと悟ったイワン・ イリイチは、たえず絶望に駆られていた。 心の奥ではイワン・イリイチは自分が死ぬとわかっていたのだが、しかしそのことになじめないばかりでなく、単にそれが理解できない、どうしても納得がいかないのだった。 昔キーゼヴェッターの論理学でこんな三段論法の例を習った――「カイウスは人間である。人間はいつか死ぬ。したがってカイウスはいつか死ぬ」。彼には生涯この三段論法が、カイウスに関する限り正しいものと思えたのだが、自分に関してはどうしてもそう思えなかった。

    『イワン・イリイチの死』レフ・トルストイ


みずからの死を受容できず、また、今までの自分の人生はすべて間違っていたのではないかと苦しむイワン。
そして、自分が生きがいだと信じてきたものが、ことごとくまやかしであり、「生と死を覆い隠す恐るべき巨大な欺瞞である」ことを覚る。

しかし、不意に彼は光を見出す。
何もかも間違っていた…が、かまいはしない、「すべきこと」をすることはできる。取り返しはつく。
涙を流す息子と妻の姿を見て、「そうだ、私はこの者たちを苦しめている」「彼らは哀れんでくれているが、しかし私が死ねば楽になるだろう」彼らをこの苦しみから救えば、自分も苦しみをまぬかれる、と…。

われらがセネカ師匠は、死ぬことも人生のひとつの義務であると言っています。


私たちには、死なねばならないが死にたくない、いま死んでいくが死にたくないということがよくある。どんなにものを知らない人間でも、いつか死なねばならないことを知らない者はない。それでも、死がそばに近づくと、背を向け、身体を震わせ、嘆き悲しむ。

君の目に映る世の中でもっとも愚かな人間とはどんな人か。まだ千年生きていないことを泣いた人ではないかね。同じくらい愚かなのは、千年後に生きていないことを泣く人間だ。これら二つに違いはない。君は未来の存在でもなく、過去の存在でもない。未来も過去も、どちらも無縁だ。君はこの一瞬に投げ込まれている。それを引き延ばそうというなら、どこまで引き延ばすつもりなのか。何を泣くのか? 何を願うのか? 無駄な努力だ。

君がやがて行き着く先、そこへはすべてが行き着く。何が君には目新しいのか。君はこの掟のもとに生まれてきたではないか。このことは、父上の身にも起 き、母上にも、祖先にも、君以前のすべての人々にも起きたし、君以後のすべての人々にも起きるだろう。いかなる力にも屈しない不変の連鎖がありとあらゆるものを絡め取り、引きずっていく。死ぬべき定めを負って君のあとに続く人々の一団はなんと大きいことか。なんと大勢の道連れなのか。どうかね、心強くなるのではないだろうか、何千という人が君と一緒に死ぬのだとしたら。だが、何千という人だけでなく動物も、まさにこの瞬間、 君が死ぬことをためらう瞬間にも、さまざまな死に方で息を引き取っている。それなのに、君は思ってもみなかったのだろうか、自分がいつかそこへ辿り着くとは。君はいつだってそこへ向かって進んでいた。終わりのない旅はないのだよ。

『倫理書簡集』ルキウス・アンナエウス・セネカ


「いま死んでいくが死にたくないということがよくある」うん。そうね。…よくあるかどうかは分からんが。。当時のローマ帝国の政治家にはよくあったのかもですね。政治闘争で暗殺もバンバンやってたし、暴君にいつ自殺を命じられるかも知れないし。
ちなみにセネカ師匠も、最期はネロ帝に言われて自害しています。血管切ったけどうまく出血多量にならず、まあ大変だったらしい。絵画のモチーフにもなっています。

ストア派的には、人生を終えることを自分で決めるのは否定してないみたい。というか、なにがなんでも生にしがみつくのはいかがなものか、みたいな感じですかね。まあかっこよさげだけど、これにはわたしは同意しかねますね。わたしは、人間なにもしなくても必ず死ぬのだから、なにも急がなくてよくない?という考え。信仰はとくにありませんが、そこを自分が決められると思うのは僭越な気がします。

でも、セネカ師匠も「いやー、私はもう今死んでもいいんやけどね、ほら、愛妻のパウリナが悲しむからさっ」みたいなことを、のろけ半分で言っていたりするのでありました。人間臭くて大好き。

こんな怖いこともおっしゃいますけどね。
「君は死ぬのが怖い。では、君はいま生きているのか」。

いまわたしは本当に生きているのか。まさに、Protinus vive「ただちに生きよ」(byセネカ師匠)である。
3/nに続く!お元気で。

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