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オブシディアン・ロードがもたらしたもの(2)  -中部高地の縄文時代-


約5000年前の黒曜石の道のお話。
前回の続きです。


縄文時代中期、日本の中心地であった中部高地から各地を結んだオブシディアン・ロード
この道を通り黒曜石が各地へと渡り、同時に各地のモノや文化が運ばれてきました。
中部高地は活気に溢れた豊な地域となり、竪穴住居が増え集落は大きくなり、大きなムラがいくつも出来ました。


モノや人がオブシディアン・ロードを行き来することで、そこにある精神文化も広く共有されていきました。
同じ考えや価値、信じるものを持つ人が各地に点在するようになり、そこからさらに広がっていきます。


装身具から見えてくる共通の認識


装身具
とは、身体や衣服につける飾りもの。
言わばアクセサリーのようなもので、当時は耳飾りや垂飾(ペンダント)、腰飾りといったものがありました。
素材はで作られたものをはじめ、ヒスイコハクなどの石(縄文早期には蛇紋岩や滑石なども)動物の牙・歯などで作られました。


この装身具(一部、儀式などで使われた土製の耳飾りなどを除いて)、だれもが身に着けていたというわけではなかったようです。
それは装身具が出土する場所から推測されています。
多くは墓と思われる場所から出土していますが、その墓の中でも特定の人だけが身につけている、または集団墓地の中の一か所からまとまって見つかっているのです。

このようなことから、装身具を身につけていたのは特別な人…例えばムラのリーダー的な人、あるいはシャーマンのような人であったと考えられるようです。
装身具はムラという集団社会の中で、役割や地位、あるいは出自や家系などを示す意味を持っていたのかもしれません。


この〝ある特別な人だけが装身具を身に付ける〟という特別な慣習は、中部高地をはじめ東北、関東周辺など東日本に広く分布しています。

そしてこのような現象が多く見られるようになったのは、中部高地に縄文文化が花開い時期と重なるのです。

このことからもオブシディアン・ロードを通じて、同じ価値感、常識や慣習広い地域に広まっていったと想像できるようです。



さらにこのような共通の価値観は、その素材そのものにも見ることができます。
装身具の中でもひと際大きく美くしい大珠たいしゅと呼ばれる5㎝~10㎝のペンダントは、ヒスイコハクの2種類の素材でしか作られなかったのです。


ヒスイ新潟県や富山県の糸魚川流域産コハク千葉県銚子市周辺産、しかも5センチ以上の大きさ形は楕円形という、共に入手困難な希少品であったと思われます。

あえて希少な石で大珠たいしゅを作ることでその価値をさらに高め、それ故〝特別な人のための尊い装身具〟であるという認識を共有していったのかもしれません。

また大珠たいしゅが出土する場所の殆どが、その地域の拠点的なムラである環状集落の集団墓の真ん中からであるということも偶然ではなさそうです。

環状集落とは
縄文時代中期から後期(約5500年前~約 3200年前)に主に東日本を中心に盛んに作られたムラの形です。
広場を中心に同心円状=環状に、竪穴住居、貯蔵庫、掘立柱建物、墓域を配置した地域の中心的なムラであったと考えられ、周辺のムラから人々が集まって祭祀などがおこなわれたと考えられています。


共通した精神文化は、希少な石の大珠たいしゅに留まらず、装身具を埋める方法や、さらには環状集落というムラの形態にまで及んでいたのかもしれません。


ヒスイの大珠



繋がる文化


オブシディアン・ロード
を通じて、日本海側から糸魚川流域を経て運ばれたヒスイ、反対に太平洋に面した千葉の銚子から運ばれたコハク。
中部高地にはこれらと一緒に、日本海側の磨製石斧やその材料、太平洋側からは貝輪や塩など様々なものが持ち込まれたと考えられています。


その一つがこの岩版がんばん
岩版がんばんは東北地方で多く作られた祈りの道具で、凝灰岩などの柔らかい石に、渦巻きや三角形、円形などの幾何学的文様、顔や身体などを施したものです。

東北地方の文化が色濃い岩版がんばんは、新潟県などの日本海側で多く出土しています。

この岩版がんばんが東北で作られたものか、それとも新潟県などの日本海側で作られたものか、あるいはここ中部高地で作られたものかはわかりませんが、ヒスイと一緒にその文化が運ばれきたことは確かであると言えそうです。



変わらぬヒューマニティー


再び装身具の話に戻りますが、
何故ヒスイコハクが熱望されていたのか…。

弥生時代の装身具を見ると、水晶や瑪瑙、ジャスパー、オパールなど様々な石が使われています。
ところが縄文時代にはこれらは石器の材料としか利用されていません。


加工という点から見ると、ヒスイは特に硬く、加工するための道具=蛇紋岩で出来た道具を駆使して加工したと思われます。

〝入手困難な希少品〟であったことに加え、〝特定の技術を持っている人だけが加工することが出来る〟ということにも価値を見出したと想像できるのかもしれません。

こういった価値観が広く伝わっていったとしたら…
他と違うこと、特別であること、優越感といった、現代にも通じる人のさがを確実にしたのも、またこの時代なのかもしれません。


次回に続きます。



*参考資料
星降る中部高地の縄文世界 企画展冊子
*写真はすべて山梨県立考古博物館


最後までお読みくださり有難うございました☆彡

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