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誰のための記録なのか

手帳やノートでの記録、iPadのノートアプリでの記録、このnoteでの文章。とにかく「書く」という行為なしに私の日々は進むことはない。ただ、その画像をSNS上で公開できるかというと、(noteを除いて)内容上の問題はもちろん、ビジュアル的にもお見せできるものは皆無だと思う。今思ったけど、到底見せられないものを、人に見られる状態にしたものが、このnote上にアップしているものなのだろうと思う。大体ここで書いているものは、書き始めたら、一気に最後まで書き上げて、大きく直すことがないというのも、そういうことだと思う。元々自分の中にあるものが、ある程度アウトプットされていて、でもそれは公開できる類のものではないので、note上にアップする過程で ある程度他の人に見せられる状態にしているという感じ。

どの記録も基本的には自分のためのものだけれど、ネット上に上げたものがきっかけで他の人との交流ができるようになるときは、楽しいなと感じる。そこからお互いに気付きが生まれたりすると、その記録は自分一人のものじゃなくなる。

OUR HOMEのEmiさんが「マイノートを書くことで、他人とではなく、過去の自分と今の自分の比較ができる」と書いていて、なるほどと思った。ネット上のコンテンツを見ることでしばしば陥りがちな「幸せそうな他人」と自分の比較。SNSが苦しくなる理由の一つだ。

私はSNS上で見る、きれいな手帳ページの写真に少し羨ましいと思うときがある。私の字が汚いからだ、、、(・_・;)いろいろな考えが思い浮かぶとき、ゆっくり字を書いていられないのだ。というように、SNS上のコンテンツを見てはつい他人と自分の比較をしてしまっているわけだ。

つい最近いろいろ記録を振り返っていたところ、Emiさんが書いていたとおり、今の自分って以前よりスペックがあがっていると気付いて嬉しくなった。以前より家事の効率がよくなってる、とか、仕事での判断に自信を持てている、とか。

そう、記録はまず自分のため。そして、そこで得たものをさらに周囲の人のためにシェアしていけたら、自分のコミュニティのために記録が活かせるようになっていくのだ。

これからもノートやnoteでの「記録」を楽しめたら、と思う。


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