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くだらないと思えたことが 救い、あるいは赦し

コーヒー豆を買いに、夫と出かけようと思う。私は家で家事や仕事をしてて、彼もまだ外で仕事をしている。電話をかけて、「コーヒー豆買いにいく。自転車の空気入れやトイレットペーパーを買いにいこう」と誘った。外での仕事で疲れてるだろうけど、一緒に行ってもらうことにした。運転するのも私。車の運転は好きだ。夫との話題は家のことや共通の知人のことや、世間のニュース。

自分よりかなり年上で、高い能力があるように思える、だけど何かが欠けている人に浅からぬ興味を抱いたことがあった。ある程度まとまった期間関わって、今思うことは「くだらないことに悩みすぎたな」だった。心底、くだらない、という思い。それだけしか残らなかった。

肉体労働で疲れた体をシートに沈ませて、外の景色やスマートフォンの画面を見る彼に向かって話す私の言葉の方が、たぶん「くだらない」というか、なんてことないことだと思う。でも、こういうやりとりを、もう何十年も繰り返しているのだった。私が助手席にいることの方が多かったけれど。


心底くだらないとしか思えないものしか残らなかった、その相手とは何だったのか。恋愛関係ではもちろんなく、師弟関係でもなく、上司と部下とか先輩と後輩でもない。同僚でもない。親子でもない。そう。何でもなかった。

そう感じていることを自覚した時、怒りとか悲しみとか憐憫とか、そういうものが一切消えているのを知った。救われたんだと思う。そして、自分を赦したんだろうと思う。他者への怒りは、しばしば自分に向けられたものであるのだ。

何気ない毎日を愛せないことこそが、くだらないことだと思う。
何も成果につながらない日々の単調な営み、繰り返しを愛せず、あるいは、単調さを成果に変えようとすることが くだらないのかもしれない。
素朴な日常、すなわち世界の循環の中で生きていればいいのに、自身を卑下したり、時には落ち着き払った存在であるかのように見せ、自身の弱さから目を背けることこそがくだらないのかもしれない。

私たちは 弱くて小さい、それでいいのだった。神とか、何かの象徴とか、そんな大それた存在ではなく人間なのだし。
そう、自分を神やカリスマ的存在であるかのような そういう振る舞いをしたり、あるいは他者をコントロールしようとすることは、何か大切な、本質的なことを無視した、尊大な振る舞いなのだと思う。

そういう悲しいありようを「くだらない」と思えて、初めて、自分が相手と真剣に向き合おうとしたことを責めることなく、許せるんだろうと思った。自分は自分の生を生きていたんだな、と。

時には言ったっていいんだ、「くだらない」と。
そして、なんてことない話をして、買ってきたものを整理して、あるべき場所に収めて、ご飯を食べる。そうして、日々 ゆるし、ゆるされている。

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