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許すことができなくても、せめてそこから離れることができれば…

自分から忘れる、とか 執着しない、というのは私にとって本当に難しいことだと思うときがある。そもそも、どうなれば手放せたことになるのかがわからない。
が、「あ、私、あのことをどうでもいいと感じている」と気づくとき、ああ手放すことができたのか、と安心して、そして少し嬉しくも感じる。あの頃とは違う場所にいると確信する。傷が癒えるには時間が必要、日にち薬だと言ったりするが、本当にその通りだ。

時間がない時。とにかく次に行かなければいけないときもある。そんなとき、自分なりのやり方で区切りをつけている人を見たこともある。人によっては、とにかくがむしゃらに仕事などに打ち込んで 自分の時間の流れをいつもと違うものにするというのを聞いたこともある。許せない何かのことを考えないようにする、というのは根本的解決にならないのでは、と思ったりもするが そういうことではなく、その対象に魂を完全に捕らえられてしまわないようにするために必要なことだと思う。

自分の内にある葛藤をなだめつつ 日々の自分の営みを繰り返すことで 自分の魂を守ることは 同時に ある対象から距離を置くことにもなる。そして気づけば「あんな人もいたな」と思える時が来たりする。もちろん「あんな人にされた、あんなこと」は消えない。そのことによる苦しみは 間違いなくあった。が、自分はもう、その人のいない世界にいる、そう思えたら  自分が楽に呼吸ができているのがわかる。

許す、それが難しいなら せめて そこから離れることができれば、と思う。残念だが、それさえできないくらい 重い事態は この世の中に溢れているが。それでも可能なら 誰かの力を借りて 少しでも 重い場所から離れる時間を重ねていける方向性を 辛い思いを抱える人に見せてあげられるようなシステムがもっと作っていけたらいいなと思う。

私自身、「ああ、やっとここまで来れたな」と感じているところ。あの数年間を取り返すことはできないこと、あの頃の私に言ってあげたいことなどを思うと やり切れないが、同時に 自分、よくがんばったね、とも思う。で、ここまで来ると 「許せなかった人たち」に会うことはもうないのだろうと思うのだ。実際は 何かの偶然で 同じ場に居合わせる可能性がなくはない人だとしても、もう関わることはないだろうと思うのだ。自分の世界から その人が消えた、ということだ。正確に言うと、その人のいた世界から自分が去ったのだろうと思う。

念の為に言うと これは 全てのことに当てはまるわけではない。どうしても苦しみを癒せない、という状況が続く場合もある。が、それでも いつか手放せる日がくる、手放してもいいのだというふうに思うだけでも 少し力が抜けて やわらかく在ることができるし、苦しんだ人こそ そうあっていいんだって 思ってほしいと思う。苦しみを否定するのではない。むしろ この苦しみを抱きながら 何とか生きてこれた自分を労ってほしい、そんな感じだ。

違う世界に行ったって いいんだ。それでも 自分にとって大切なものを手放す必要はない。むしろ大切なものときちんと向き合えるようになる。許す、とは 許すべき対象のためにあることではなく その対象を手放して 本当に大切なものを慈しむための プロセスなのかもしれない。


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