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老いる

「もう、子どもにかえっていっているんだよ。あなたが思っていた、その人は 今はそこにはいないよ」
「まだ、早いんじゃないの?」
「それは、その人がそういう生き方をしているということだ。その人は、もう何かを手放したのだ」

人は 老いていくとき、ある部分では、子どもにかえっていくというが そうなんだろうか。

夫の両親は、体には 確かに老いを感じなくもない。でも、若い、というかエネルギーをしっかりと持っていて、そして 大人としての落ち着きや分別もある。そして、多くの人が彼らを慕っている。その人たちに平等に接する。いろいろなことを思っていて、時に 私にそのことを ぽつりぽつりと話したり、教えてくれたりする。孫である、私の娘たちに向ける眼差しには、人を育むことのできる光が間違いなく宿っている。
私は、心から二人を尊敬している。夫に出会えたことには、もちろん感謝してしているが、夫の両親と出会えたことも、私の人生の財産だと思っている。同じ生き方はできないが、ああいう大人でいたい、と思う。確かな愛を持った人。

だから、冒頭に書いた「その人」は、もちろん夫の両親のことではない。念のため言っておくと、私の両親のことでもない。
まだまだ若かったはずの、かつて私が尊敬していた、その人は、ある時から、どんどん大切なものや、誇りを喪っていった。人としての愛情や、年配者としての誇り、責任というものを知らないとでもいうような言動を繰り返すようになった。
夫の両親よりもずっと年下である、その人だが、そして、どうも周囲の人から尊重されていたという、その人だが、軽はずみな言動と意地悪さに満ちた眼差しを剥き出しにして、気に入らない人を嘲笑したりするようになった。人を教え諭すという仕事をしていたはずだったその人が。

そんな彼のことを、ある人が言ったのが冒頭の言葉だった。
「もう、彼のことはあきらめなさい。あなたが尊敬していた彼は、残念だけれど、もうそこにはいないよ。ちょっと早いけれど、彼はもう老いていっているのだ。その老い、とは、分別や知恵を持った存在としてそこに在ろうとする老い方ではなく、ただただ、これまで蓄積してきたものや誇り、全てを手放して、子どもの部分だけが残っているんだ。そして、酷いことを言うようだけれど、最初から彼はそういう人だったのではないか。あなたが見ていた幻が消えていっているんだよ」


大切な人を、見送ることが続いた私は、そして体の変化を痛感することが増えた私は、
どう年齢を重ねていくか、をよく考えるようになっていた。大人としてどうありたいか、助けを求められた時、どう振る舞う人でいたいかということ。それは、やがて来る「老い」を考えることでもあった。いかに死ぬかはいかに生きるかだとも言われる。

自分の持っているものを外に出すとき、相手を不安にさせない使い方をできる人
ただそこに在りながら、確かな言葉を常に肚の中に持っている人
多少のことにも動じない、ずっしりとした重みを感じさせる人
上から他者を見下すのではなく、遠いどこかに目を向けながら、大切な何かを、そこに見出していることがわかる人 でありたい。

さて、そういう人として在って、老いていくときに見せるかもしれない「子どもらしさ」とはなんだろうか。私がこれまで見てきた、大好きな人たちが「老い」る姿に、人を失望させる彼のような子どもっぽさなんて、見たことは一度もない。あるとすれば、歳とってもなお、学びを楽しむ、好奇心旺盛な姿という意味での子どもっぽさであったと思う。ということは、老いて、みんながみんな同じようにこどもっぽくなるのではなく、やはり、本来のその人らしさが露わになっていくだけではないのだろうか。

無責任な言動を繰り返す彼は、生命体としてそこにありながら、社会的な存在としての誇りを失って、それでも、人から敬われることだけは望む、それこそ目についたおもちゃを人から取り上げる、幼い子どものようになっていった。
私は、ある時からその人と話す時だけ、過去という幻影の中に自らも入ることにした。かつて尊敬していた人と夢の中で再会して、話をするような。そう、生身の人間として その人を見ることはできなくなったのだった。彼の姿は、私の望む老い方ではないようだった。こんな別れ方があるのかと思いながら、その人に どうぞお体に気をつけてと告げた日のことを思い出す。

自分がいずれ どんなふうに 人と別れるだろうか。どんなふうに 自分の人生を振り返るだろうか。できれば、確かな愛とか、エネルギーのようなものを、なんらかの形で持っていたいけど、まあ、これから考えていくことにしようか。

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