見出し画像

私が描くことを好きになったワケと夢と今。

どうも、苺大福ちゃんです。
今回のnoteは私の"描くキッカケ"についてと"夢"のお話しです。


■かぞくのはなし

母はフィリピン。父は日本。
そんな両親から生まれた私の容姿は"純日本人"
背も高くなく、色もフィリピン系の健康的な肌色というよりも、やや白めだ。

まだビデオデッキだった時代、父は漫画やアニメを幼い頃から私たちに、レンタルビデオ店で借りて見せてくれました。
また絵心があり、私の使っていたお下がりの学習机には、父の描いた上手な絵が今でも残っています。

そして、私には姉がいます。
姉はいつも私の中で憧れの存在で、幼い頃からいつも姉の背をみて、追いかけていました。
姉が赤の服を着れば私も赤の服を、姉がピアノを習えば私もピアノを、姉が好きな音楽は今でも私の好きな音楽です。

なぜ私が、この2人の話をしたかというと。
この2人が今の"やりたい"と感じることの多くのきっかけを与えてくれたからです。


■やりたいことをやる

私は幼い頃から好奇心が旺盛で、それで怪我をしたり失敗することも多くありました。

ですが、やりたい事をできる。そんな環境を与えてくれたのは両親でした。
そして、やりたい事をやるのは弟が上手で、やるべき事を考えるのは、姉が上手でした。

私がまず先に夢に掲げたものは "画家"
この夢を持つのは小学生へ入学してからで
なぜ"画家"かの理由になるかわからないのですが、幼い頃こんなきっかけがあり絵を描くことが好きになりました。

私は、幼い頃週末になると祖父母の家へお泊りに出かけていました。
寝る前のおじいちゃんがお風呂に入っている頃、襖を開け広くした和室に隣の部屋の電気が漏れる灯の中、床に伏せ、チラシの裏のツルツルとした面にHBの薄い色の鉛筆で描いたところどころ穴の空いた絵。
絵を描くために床に突っ伏していた私に祖母は優しく話しかけ、その絵を見た祖母に「パパに似て絵が上手いんだね!」とても褒めてもらいました。

おじいちゃんやおばあちゃんって、孫にはとても優しくて、何をしてもあまり怒らないのですし、褒めるときもとても大袈裟に褒めてくれるじゃないですか。

きっとそれだったと思うんです。
でも、今でも忘れられないくらいに、その言葉が嬉しかったんです。
そこから絵を描くということが好きになりました。


■小学生のわたし

小学生へと上がると、私は図工や音楽、それから国語の音読がとても好きな子になりました。

自分を形で表現できるものが好きでした、音読で声の強弱をつけて読んだり、音楽では大きな口と声で歌い、図工では自分の想像した物が形になるのがとても面白いなとおもってました。

それから、図工と音楽の授業を掛け持つ女の先生のことも大好きでした。

ある模写の授業のこと、校庭に生えた木の模写の授業がありました。
私はとびきり力を入れて、見たままの形を描いていきました。幹に空いた大きな穴や出っ張り……。それを描くことに夢中になっていて、気がつくと授業で貰ったはずの大きな紙には木の幹と少しの枝でもう一杯です。

みんなは木をきちんと紙の中に収めているのに……。なんだかとても恥ずかしくなり絵を隠すように身をかがめ、小さくなりました。

そんな時に声をかけてくれたのは先生でした。先生は「大きな木だものね。この紙に収まりきらなくても仕方がないわ!待っていてね?」
そう言うと同じ大きさの紙を何枚も用意して「これを足して大きな木を描いてね。」と優しく笑ってくれました。

結局大きな画用紙を5枚も使った大きな木となりました。

その先生は次に私が授業で描いた友達の似顔絵を、NHKのコンクールへと提出して、私は表彰状を頂いたりしました。
とても良い経験や、枠に囚われず描いて良いということを教えて、優しい言葉をかけてくれた先生には感謝しかありません。

この頃になると絵を描くことは益々好きになっていました。

■月間・週間コミックスとの出会い

今まで模写は模写でも静物画を多く描いていた私を変えたのは"月間・週間コミックス"

当時は付録目的で買っていた様なものだけど、途中からふと、模写とは違う"キャラクター"の絵が紙の中で話を紡いでいる。と言うことの面白さに気づいたのです。

そこから"静物模写"から"イラスト"へと変化していきました。

まずはキャラクターの模写でしたが、書き慣れると、そのキャラクターを自分の考えたポーズにしたり、別の洋服を着せたり。
そんな事をしている間に"私も漫画を描いてみたい"いつしかそんな風に考えるようになっていました。

当時、なり方もわからなかった"画家"から"漫画家"に夢が変わっていきました。

私は中学生になっていて、そこからはとりあえず絵の練習。お年玉から画材も買いました。
トーンや原稿、ペンからインク、色ぬり用にコピック。
決して安くはありませんでしたが、使い慣れていないと本番でも描けないと思い、今まで貯めていたお小遣いは、画材や漫画へと形を変えました。

何度か原稿作っては送ってみたのですが撃沈。
ですが、漫画好きや漫画家志望が転じて、一度だけ"週間少年雑誌の情報バラエティーの番組"へ出演した事なんかもありました。
なんと貴重な経験だったことか……!

中学2年からは美術部へと所属し、絵が好きな友達も増え、益々活動をして行く……はずでした。

■イラストを描く機会が減った

これは高校へ入学した事がキッカケだったのかなと思うのですが、あまりイラストを描かなくなりました。

中学時代、漫画やアニメへの関心が強まったこと、声の大きさや特長がある事、それから好奇心。
背中を押したのは先輩の「特長を生かせたら素敵だと思う。」と言う言葉でした。

思春期真っ盛り、人との違いにまた一段と敏感な時期。声の大きさや、高さにコンプレックスを感じていた私には衝撃的な一言でした。

そんな先輩の言葉に突然、声優への道が開けた気がしたのです。

当時から思い立ったらすぐ行動。
もう中学3年になっていた私は、周りがもう進学へ向け受験勉強をする中、高校で専門学習をしている学校はないか探しました。
見学をして、親にお願いをして、面接へ……。

4月には志望の専門学校の入学式に足を運んでいました。
今考えるととんでもない行動力。そして無茶を聴いてくれた両親へ改めて感謝しなくてはならないですね。

そこからの1年間は授業を1つ1つ丁寧に学びました。将来のかかった事だ、私は声優になるんだ。
両親が決して安くはない専門学校への学費、そして東京までの交通費を支払ってくれている事を考えると一生懸命に取り組むことができました。

結果を言うと学校で教育を受けた期間は、僅か1年間だけとなりました。

挫折の理由はあっけなく、電車での通学にありました。
当時中学生の私が、高校でいきなり東京の寮での生活になる事は、両親には認めてもらえませんでした。
毎日5時間の勉強のために、往復6時間と言う長い時間を電車で過ごしました。
電車では毎日、滑舌の練習になればと本を口パクで読み、時には音楽で満員の電車座れなかった時に気を紛らわせました。

でも、この6時間。無駄にしてないかなと思えてなりませんでした。
もちろん通学は楽ではありませんでしだが、この隔離された空間で過ごす6時間は私にとっては意味をつける事が出来ませんでした。

そのため、1年間で区切りをつけて、高校を卒業してから、また学び直そうと考えました。


■新しい出会いや刺激

それから私は、家からは少し遠い通信教育の高校へ編入。
ほぼ学校へ通う事はなく、家で過ごせる時間が長いことから、アルバイトをすることで両親に払わせてしまった学費の足しになればと働き始めました。
通信教育を選んだ大きな理由はそこにありました。

そして、休みの日は好きな事へ多くの時間を割きました。

映画・漫画・アニメ・音楽…そしてまた絵を描くことになりました。
ただ、映画や音楽への関心が強まっていました。
映画に関しては地デジで映らなくなりCS・BSのアンテナでの受信に頼りきりになっていた実家ならではでした。

アルバイトから帰宅すると家族がアニメを見ていて、アルバイトへ出かける前は母が海外ドラマをみている。
両親が仕事で留守の時、テレビは私のもの。
この頃、寝る前に映画を1つと言わず、時間が許す限り見ると私は決めていたのです。

また、音楽は姉からの影響や、これまたテレビ放送される音楽専門チャンネルの影響で今流行りの曲やバンドの情報が自然と入るようになっていました。

ライブハウスなどで音楽を聴くようになったのはこの頃です。
CDやグッズチケットなど、バイトの残りのお金をやりくりして楽しむようになりました。

音楽とイラスト一見離れてみえますが、実は関わりもあったりして、この頃好きなアーティストのジャケットやTシャツのデザインをあるイラストレーターさんが手がけていることを知りました。

これは決して少ない事ではなく、作品や楽曲、バンドのイメージなんかになったりして、こんなお仕事もあるのかと"イラストレーター"への興味へと矛先が向けられはじめたのです。

この先にも東京へ移り住み、オーディションを受けながらバイト二つを掛け持つ日々を送っていくことになるのですが、それはまた別の機会に。


■今のわたし

今書いた出来事のどこかで私は旦那さんと出会い、そして結婚をして、子供を産みました。

そして友人から「楽しそうだから一緒にやってみようよ。」そんな一言から始まったライブ配信。

そんなキッカケと好奇心から、現在ライバーとして約1年間活動をしてきました。いまも続いていることにドキッとします。
ですが、今でも絵に対して感じている気持ち、それがお仕事になったらどれだけ嬉しいかと言う思い。
また、声のお仕事への関心、途中身を結べずに宙へと舞ってしまったこの気持ちをまた形にしたいと言う思い。

それぞれに偽りはなく、気が多いな。なんて思う人も、そんなに幾つも叶えられないよ。と思う人もいると思います。

ですが、諦めたら叶わなかったと言う結果しか残らない。私はそんな風にしたくないです。

今は"ライバー"という活動の縦軸が、私にはあります。それを基盤に、少しずつ今後の活動への道筋が作れるよう、夢のままでなく現実にしようと今働きかけています。
ライブ配信は、今後の私を支える基盤となると思います。

まだまだ何もかもが途中です。
でもこれが今の私が通ってきた道のりであり、感覚を作った全てでもあります。
やってきたことに無駄はなく、全部が私の中で生かされています。

今後も好奇心やあああ、ワクワクのアンテナは強く張っていたいと思います。
私の活動を支えているファンの方や家族に応援し続けてよかったと、そう思ってもらえる私であり続けること。この夢に明確な名前はないけれど、これを今の私の夢とさせて貰いたいと思います。

今までたくさんの言葉に救われたり、大きな変化に繋がった私が、今後の活動で紡ぐこ言葉に、また救われる人が1人でもいてくれたら幸いです。


長い記事になりましたが最後まで読んでくださりありがとうございます。


■Twitter
■Instagram/イラスト
■Instagram/ライバーアカウント



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?