邦画はつまらない・・・のか?

 ネット上に興味深い記事が出ていた。

 日本における映画産業の衰退が囁かれだして、結構な月日が経つ。ここでいう「衰退」とは、金額ベースの話ではなく、映像娯楽の中心の座をテレビに奪われたということなのだろう。確かに、昭和40年代前半生まれの私が学生時代、テレビ番組の話をする人間は周りにいたが、映画の話をする人間は極端に少なかった。趣味の多様化と言ってしまえばそれまでなのだが、映画が持つ独特の風合いが好きな人間としては聊か寂しさも覚えてしまう。

 それでも私が子供の頃は、映画のセリフが流行語になっていた。私と同年代の人間ならば、誰しも水泳の授業の際、水の中で逆さになり「スケキヨ」とやったであろうし、誰かが転倒でもしようものなら「八つ墓村の祟りじゃ~」というお調子者がいたものだ。私が流行に疎いせいかもしれないが、子供が(映画を見ていなくても)真似をするような流行は、長いこと生まれていないような気がする。

 では邦画は本当につまらないのか?
私には、そうは思えない。記事中にもあるように役者は限られており、制作コストも絶望的に低い。配給会社も手堅くヒットを狙うため、マンガ原作やテレビドラマのスピンオフも多い。映画の持つ壮大なスケール感がそこにはない。しかし低コストの中でも実験的な映画を作る、才気溢れる監督も少なくない。しかしそうした映画がヒットしているか?と問われれば、残念ながら答えはNoだ。アニメ映画が日本の映画産業をけん引しているのは事実かもしれない。では日本映画が取り組むべき課題は何であろうか?私なりに考えてみた。そして一つだけ思いついたことがある。
それが「マンガ原作禁止」だ。

 日本のマンガのレベルは高い。私の知人(絶対に友人とは呼びたくない)の中に「マンガを読むやつはアホだ」と言い放った京大出身の「阿呆」はいるが、彼は日本のマンガが描き出している世界観の多様さを知らないのだろう。石ノ森章太郎氏は「萬のことを画にする」という意味で「萬画家宣言」をしたが、今や日本のマンガが描き出していない世界を探す方が難しいくらいだ。ヒット作も多いだけに、これを原作とするのは手っ取り早いのだろう。しかし映画化(特に実写)して成功だった、と言えるような作品を残念ながら私は知らない。優れた役者が演じたとしても、それがマンガのイメージを超えることはない。さらにマンガという、読者の想像力に委ねる部分の多いメディアでのみ成立することを実写にしてしまうと、冗長になってしまったり、陳腐になってしまう。そして何よりも、原作者が育たない。かつて日本映画黄金期を支えた作品の多くは、監督や脚本家の頭の中で考えられたストーリーから始まっている。だからこそ、その映画のキャラクターこそが「正解」となり、余計な論争を生むことがない。例えば「七人の侍」が、マンガ原作だったとしたらどうだろう。三船敏郎演じる「菊千代」が胸をはだけた三船敏郎とイコールにはならなかったのではないだろうか。
 映画ファン、特に洋画好きの中には、日本の役者について厳しい意見を言う人も多い。しかし多くの場合、それは「近親憎悪」的なものであり、その役者に対する評価ではない。確かに目を覆いたくなるようなアイドル映画は、昔から存在している。しかしすべてのアイドルがダメというわけではない。「美園ユニバース」で元関ジャニの渋谷すばるが見せた演技は、お世辞抜きに素晴らしかったと思う。問題は俳優の演技ではなく、作品の持つイメージとの乖離にある。藤原竜也は誰もが認める名優ではあるが、一連の「カイジ」は全く合っていなかったように思う。これは藤原竜也の問題ではなく、「カイジ」という独特の世界観とタッチで描く福本伸行の作り出すマンガのイメージが強すぎるだけだ。はっきりと言えば、あの映画は作るべきではなかったと思うし、藤原竜也の無駄遣いだったとさえ思える。
邪推だが
「カイジっていうマンガ、知ってます?すげー面白いんですよ」
「それ売れてるの?」
「すげー売れてるみたいです」
「じゃそれで撮る?」
「藤原竜也出しておけば大丈夫でしょう」
みたいな会話が繰り広げられた末の作品ではないかとすら思える。
監督に力がないわけではないと思う。むしろ、よくあの世界観を外さずに撮り切ったと思う。しかし絶望的に企画が悪い。企画が悪いという点では宇宙戦艦ヤマトやガッチャマンの実写も同じだが、こちらは原作への愛情が微塵も感じられなかった点で、もう一つ罪が重いような気がしている。

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